百発百中の団地妻

即興小説トレーニングに投稿した作品(「攫うわ あなたのハート 鷲掴み」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。

 

「あっためれば食べられるもの、冷蔵庫の下の段にたくさん入ってるから!」

「分かった」

夫はパソコンを覗き込んだまま、振り返ることなく返事をした。いつもながらのことで、今更気にすることもない。買い物用手提げに、日焼け防止用の黒い遮光レース付きのつば広帽子。準備万端だ。小学校5年生の娘は夏季の集中ハイレベル講座とやらで、夜9時近くまで家に戻ることはない。二人にはママ友たちと夕食会だとすでに伝えてある。バッグまで持ち上げたところで、さきほど食べ終えたばかりのスナック菓子の袋がテーブルの上にそのままになっていることに気が付いた。私は荷物をいったん床に下ろし、空になった菓子袋を小さく丸めると、部屋の隅においてあるゴミ箱の方へと放り投げた。袋は壁にぶつかり、跳ね返るとそのままバケツの中に飛び込んだ。ゴール。

「百発百中だ」夫が振り返ることなく、言った。

「遅くなりそうだったら、連絡するから」と私は言った。

改めて荷物を拾い上げると、玄関を飛び出し、すぐさまバス停へと向かった。明大前行きのバスが到着するまであと数分、これを逃すとさらに20分ほど待たなければならない。バッグが重く、汗ばんだ手に食い込んで痛んだが、一生懸命走ったおかげで、幸い、到着時刻の3分前にはバス停に到着することができた。私は余裕を持ってベンチに腰を掛けた。今日は熱帯夜になる。すでに夕暮れ時だが、道路の向こうには逃げ水がちらつき、厚く湿った空気にヒグラシの声がこだましている。ふと足元の荷物を見遣ると、バッグの近くにペットボトルが転がっている。私は周りを見回すと、ちょうどベンチの右斜め後ろ、座っている場所から7メートルほど先に自動販売機があり、その脇にゴミ箱が備え付けられているのが見えた。遠すぎるか?ペットボトルの向きが飛行中にぶれることがないように、ちゃんと重心を確かめ、スナップを利かせて投げた。ペットボトルはミサイルのように、空中に緩やかな弧を描いて飛んでいき、ゴミ箱に空いた二つの穴のうち左側、ペットボトル用の穴へとまっすぐ飛び込んだ。気持ちがいい。思わずガッツポーズをした。正面に向き直ると、道の向こうからバスがやってくるのが見えた。なんとか間に合いそうだ。

 バスが動き出し、背後に残していった世界がどんどんと遠くなっていく。団地とはしばしの間お別れだ。明大前駅に着くと、そのまま井の頭線のホームへと向かった。18:18分発、急行渋谷行き。これなら7時までには着替えを済ませ、席に着くことができるだろう。下北沢を過ぎ、列車はトンネルの中に入る。先程まで夕日の暖色系の光に照らされていた車内が、急に電灯の冷たい光に包まれる。やや感傷的でさえあった車内の風景は、あっという間に引き締まったように見える。平日のこの時間だ。これから渋谷に行こうという者は、皆それぞれに果たすべき目的を帯びている。大きなギターケースを体の前側に抱えた若い男は、ドアに寄りかかり、ぼんやりと真っ暗な窓の向こうを眺めている。あるいは、ガラスに映る自分の顔を確かめているのかもしれない。塾から支給されている塾生お揃いのリュックを背負い、バランスを崩さないように棒に掴まる小学生は、メガネのブリッジのすぐ上にしわを寄せ、もう片方の手だけで器用に単語帳をめくっている。空いている座席の真ん中に座る、ファンシー系のファッションに身を包んだ若い女は、渋谷に近づくと眺めていたスマートフォンをピンク色のハンドバックの中にしまい、一度遠くを眺めるような鋭い目を作ってから、姿勢を正し、両掌でほほを一発叩いた。臨戦態勢だった。

 渋谷駅に着くと、すでに陽は沈んでいた。私はスクランブル交差点に飛び込む。ここを通ると、昔の感覚がよみがえるような気がして、自分がまだ団地妻の格好のままでいることを忘れそうになる。大勢の若い男たちと、それと同じくらい大勢の若い女たちは、まるでデート中に母親と鉢合わせしたみたいに、私から不自然に目をそらしたまま歩き過ぎていく。私はそのまま道玄坂を急ぐ。200メートルほど登り、振り返ると緩やかなカーブの先に渋谷駅が見えなくなるくらいの地点で、私は脇道へと逸れた。同僚のミカの姿が見える。店の入り口近くでタバコを吸っているのだ。彼女は私の姿に気が付くと灰皿にそれを押し付け、こちらに向き直った。

「ユキ…!嬉しいわ!もう来てくれないんじゃないかって、マスター心配してたんだよ!」

「でもこの通りよ」

「どうしたの?最近忙しかった?」

「まあそれなりにね」

「ねえねえ、そんなことより、新人さん入ったらしいわよ」

「美人なの?」

「女じゃないわ、男の子。新しいバイトの子。大学生だってよ」

「悪いけど、私、ガキを性的対象にする趣味はないの。知ってるでしょ」

「そうかもしれないけど、元気になるじゃん。若い子来ると」

じゃあ後で、とだけミカに伝えると、私は金色に縁取られた正面玄関の脇にある細い通路を抜け、スタッフ用の小さな玄関から中に入った。たった一本の蛍光灯が照らす狭苦しい階段を駆け下りて地階にたどり着くと、倉庫や事務室の前を通り過ぎて、廊下の奥の更衣室に入った。既に何人かがスタンバイしていた。

「あら、ユキじゃない。いつもながらすごいわね、そのカッコ」同僚のキョウコだった。

「団地妻ってのも楽じゃないのよ」

その時、キョウコが不意に私の肩を掴み、ぐっと引き寄せると、私の目をじっと見据えてこう言った。

「出戻りらしく順番はわきまえなさいよ」

「悪いけど、それってなんか札でもついてるわけ?」

「お互いが利益を確保できるに越したことはないって、そう言っているつもりよ」

私は彼女の腕を振り払い、自分の名札がついたロッカーへと向かう。ロッカーを開け、脱ぎ捨てた服をそこに突っ込む。持ってきたバッグを空け、私は商売道具を慎重に取り出した。丈の短い赤のパンチレーススカート。黒いレース地のカーディガン。ハイヒール、それに黒髪ロングのウィッグ。すべて身に着けると、そこには一人の仕事人が立っていた。

 ホールに出ると、バーテンの高橋と若い制服姿の知らない男がバーのカウンターで話し込んでいた。すでに白髪の混じる年齢となった高橋は、ここで一番長く働いている人間スタッフの一人だ。

「ユキちゃん」

「お疲れ様。その子が新人ね」

「はい。新庄です。宜しくお願いします」若い男が答えた。にっこり微笑むその顔には皴ひとつなく、肌は赤ん坊とほとんど変わらないくらいきめ細やかで、バーのムーディーな明かりに照らされて、まるで高級家具みたいに光っていた。着ているものは新品のようだが、全身糊の利いたものを身に着けているせいで、まるで着せ替え人形がおしゃまな仮装をさせられたようにも見える。

「この子は筋がいい。たぶん、一月後にはカウンターに立てるようになるだろう」と、高橋が言った。「ほら、さっき教えたとおりだ。新庄君、彼女に見せてみたまえよ」

新人店員はベテランバーテンから空のシェイカーを受け取ると、その両端を左右の指でがっちりロックし、私の方に向き直ってから得意げな顔でリズムよくシェイクし始めた。

「どうだい?このピンと伸びた背筋がいいだろう?」高橋は腕組をして、適度に伸びた顎髭をさすりながら弟子の様子を眺めている。たしかに、才能はありそうだった。ちょっとしたところでヘマをするような人間には生まれついていないのだろう。全身から程よく力が抜けていて、シェイクを終え、見えないカクテルグラスにドリンクを注ぐジェスチャーをしてみせた時も、息切れ一つしなかった。いずれにしても、私の守備範囲ではないが。

「あなた成人してるの?」私は彼に尋ねた。

「いえ、来月で二十歳です」

「信じられないわね。中学3年生でも通りそうな見た目してるわ」私は高橋に向かって言った。

「新庄君、このレディは大丈夫だが、若いと見るや否や味見したがるお歴々も中に入るから気を付けることだ」高橋はそんな風に言いながら、ゲラゲラ笑っていた。新人君の方は困ったような目で私と師匠を交互に見つめていた。

「ところで新庄君、彼女は狙撃手って呼ばれてるんだけど、いい機会だから君からお手並み拝見願ってはどうかな?」

「ほんとですか!?それじゃあお願いしていいですか…?」

支配人はテーブルの上に置いてあったワインコルクを私に手渡すと、ホールの隅のゴミ箱を指さした。

「さあ、見てごらん」支配人は言った。

およそ15メートル。親指と人差し指でつまむようにワインコルクを持ち上げると、私は目を細め、人差し指と手首のスナップを利かせてそれを放り投げた。コルクは夜空を横切る流れ星のように放物線を描き、コトンと音を立ててゴミ箱へ飛び込んだ。

「すごい。ほんとに狙撃手だ、ユキさん」

「本番はこれからよ」

私はホール中央の小さな丸テーブルの一つに腰かけた。ホールには同じようなテーブルがいくつもあり、それぞれに一人しか女は座らない。テーブルを三つほど挟んだ先にミカが腰を掛け、高橋の隣に控える新人君に臆面もなく色目を向けている。新人君はそれに気が付いているのか、休めの姿勢で下を向いたまま、顔を上に向けようとしない。そこから左60度ほど目線をずらすと、ハルピュイアのような目をしたキョウコの双眸と鉢合わせする。18:55分。なんとか間に合った。最初の波をとらえられるかどうかが勝負なのだ。

 18:58分、入り口近くで待機していた男たちがバーのカウンターへと通される。髪を後ろになでつけ、がっちりとした肩がスーツの下からでもよくわかる、日本青年会議所にでも出入りしていそうなビジネスマン風の男。ジーンズにスウェット、ニット帽をかぶり、子供っぽい目をホールの女たちに向けるIT社長気取りの男。入り口で軽く会釈し、カウンターから半身だけこちらに向けて様子を窺う芸術家然としたメガネの男。与えられた手札からステイを選択し、私はしばらく所在なく目線を彷徨わせていたが、しばらくすると視界の隅に大物の影がちらついた。この目でしかと捉えなくともわかるのだ、本当にいい男というやつは。口ひげは入念に手入れされ、先の尖った革靴は磨き上げられて黒光りしている。全体としては地味な印象だが、黒いジャケットの胸には赤いハンカチのワンポイントが顔を出し、全体の雰囲気を引き締めている。年齢は40になるかならないかだろうか。

キョウコと目線が交錯する。なるほど、そういうことか。さあ、これからが狩りの時間だ。会員制クラブ・バケット。狙った男は百発百中。団地妻にして狙撃手とは私のことだ。