虹よ、この世の塵芥を照らしたまえ

即興小説トレーニングに投稿した自作小説(「虹よ、この世の塵埃を照らせ」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。

 

 その日は朝から雨が降り出し、それでまだ月の半ばだというのに、すでに今月だけで10日間降水を記録したことになった。雨の多い地域に共通してみられる特徴として、死んだ動植物がなかなか分解しない結果、土地は泥炭層と呼ばれる重くやせた土壌に覆われているので、何かに使われ得るとすれば、それは畜産業と決まっていた。ここもやはり例外ではなく、村の中央に位置する刑務所を取り囲むように養豚場が立地していた。それで、ここは田舎の農村であるにも拘らず、しじゅう何らかの騒々しさに支配されていたのである。昼間は豚たちのいななきが豚舎から、夜間は鬼の啼く声が格子戸から村中に響き渡っていた。

 その日の雨はすさまじく、年老いた囚人グリーンは牢屋の窓から10メートルと離れていない豚舎からの鳴き声が聞き取れないのを確認すると、ゆっくりとその場で屈伸運動を始めた。雨に濡れる前に、十分に体温を上げておかなければ危険なのだ。

 老人の勤労時間はすでに終わっていたが、ほどなくして彼を呼びに看守がやってきた。看守は手短に、「やってくれるか」と尋ねると、老人は「うむ」と答えた。看守がカギを開け、老人は牢屋を出た。看守の手からワックス加工された鉛色のレインコートと長靴を受け取ると、外で待機していた二人の職員に付き添われて、刑務所の敷地の外へ出た。門の前には、これまた別の職員に付き添われた若い囚人が待っていた。

「よく来た。広い空と対面するのは久しぶりだろう」強い雨の中、聞き取れるように若い囚人と至近距離まで近づいて、グリーンは言った。三人の職員に表情は乏しいが、二人の囚人が接近した時、にわかに緊張が走った。

「仕事はなんだ」

「勤勉な男のようだな。いいだろう、説明する。お前は知らないかもしれないが、ここの連中が雨の日を平穏に過ごせるのは、お前がこれからする仕事があってこそなのだ。あれを見ろ」

グリーンは道の両端に整備された側溝を指さした。水は黒く澱んでいる。

「ここは知っての通り、養豚場のど真ん中にある。それで、こうしてしこたま雨が降ると、豚小屋からクソやら何やらがここに流れ込んでくる。俺たちの仕事は、それをとにかく滞りなく下流へと流してやることだ。これを使う」

職員が若い囚人とグリーンに、それぞれデッキブラシを手渡した。

「こいつを遠慮なく澱みの中に突っ込んで、外へ掻き出せ。水のあるうちに流しきれなければエライことになるぞ。晴れてから太陽が当たると、ここらににおいが充満して、おそらく今夜は誰も寝られなくなる」

「俺のヘマだと知れたら、ふくろだだきだろうな」

「そういうことだ」

「ところで若いの」

「なんだ」

「名前は?」

「マティアス。マットだ」

「わかった、マット。じゃあ、どぶさらいに大いに精を出してもらおう。我らが囚人に許されし唯一の安息の地、眠りの王国を悪魔アスタロト(※悪臭で知られる)の手から守れ」

 マットはグリーンと同じ側溝に降り、慣れた老人の手つきを観察して、見よう見まねでデッキブラシを動かしていた。業務に関すること以外、つまり囚人間の私語は原則として厳禁だったが、雨音が声をかき消してくれたので、彼らは互いに近寄れば、職員に制止されることなく会話することができた。グリーンが口を開いた。

「ところでマット、お前さん今日はどういう成り行きでここに来た」

「賭博がバレた」とマットが答えると、老人はケラケラ笑った。

「そんなことだろうと思ってた。気づいたら手前だけ除け者で、全部おっかぶせられたって、そういうオチだろう」

マットは黙して答えず、デッキを側溝の奥深くまで突っ込むと、力いっぱいヘドロを持ち上げて下流の方へと投げ棄てた。一度にたくさんやろうとするな、腰を痛めるぞ、とグリーンは言った。

 今度はマットが口を開いた。

「あんたこそ、なんでこんなことをしているんだ」

「なんでと言われてもな」

「報奨も減刑もないんだろう、どうして毎回こんなことしてる」

「まあ、たまには体を動かすのも悪くはないぞ」

二人は顔を向き合わせることなく、同じ方向を向いたまま会話していた。マットが首を動かさずに、瞳だけをグリーンに向けて合図を送った。

「安心しろ、俺は口が堅い」若い囚人は言った。

「話が読めん」

「もったいぶるな!なにかあるんだろう」

「悪いがお前さんが期待するような裏事情はどこにもないぞ。これはただの趣味、ボランティアだ」

ここまで来て、ようやく職員の一人が近づき過ぎた二人を警棒で引き離した。朝から降り続いていた雨は次第に弱まりつつあり、西の空にはすでに青空ものぞきつつあった。

イムリミットが近づいてきて、見守る職員たちも落ち着きがなくなってきていた。職員は二人を上流と下流に大きく分かれさせ、若い方を、重みで沈んだ汚物が残る上流で働かせ、老人の方を下流で待機させた。会話を途中で遮られ、昂る神経に未だ追い回されていたマットは、独り己自身に語り掛け、心の中で発話を継続していた。これが老人ってもんだな、老い先長くない人間はかえって気楽なもんだ。あのぶんじゃ、一生牢を出ることはないんだろう。しかし、いつか牢を出られる日が来ることを知ってるってのも、ほんとはそんなにいいもんじゃない。この刑務所はタイムマシンだ。俺はここからさらに数千回、天気以外のすべてが同じもので出来ている一日を繰り返して、カレンダーの上で十数年後のある日、十数年後の未来へ突然放り出されることになる。不確定な何かを、先の読めない何かを手をこまねいて待っているよりほかないんだ。いや、俺は来るべき不明瞭な未来のためにできるだけのことをしていた。だだ、その全てが裏目に出たというだけだ。職員に注意されることも顧みず、若い囚人は手を止め、天を仰いだ。雲の隙間から太陽が覗き、眼の上にかざした手のひらにほのかな温かさを感じた。

職員が作業の終了を宣言した時、太陽はすでに傾き、空はオレンジ色に染まっていた。雨はまばらになり、水嵩の減った水路は一応底が見えるくらいの透明度を取り戻していた。疲れ切ったマットはレインコートを脱ぎ、ほてった体を夕風にさらしながら棲家の入口へと歩き出していた。

「おい、若いの。これを見ないんじゃ、お前、人生損してるぜ?」

グリーンが言った。マットは背後の老人に振り向くと、彼が見上げている方向へと目を向けた。虹がかかっていた。若い囚人はその自然現象の美しさに不意を打たれた。

「長くこなしてりゃあ、たまにこういう日もある。運がいいな、若いの」老人は言った。「虹ってのは、晴れていても、雨が降っていても見えないんだ。その中間じゃなきゃ、見えないんだ」

職員もグリーンを制止しようとはしなかった。それは会話ではなく、ほとんど老人による独り言だったから。それに、彼らは作業が無事完了したことに心から胸をなでおろしていた。今夜いい夢を見られるかどうかは、ここに昼夜を問わず詰める彼ら自身にとっても大問題だったからだ。若い囚人はというと、その時、自分が人生で初めて虹を見たような気がしていた。無論、本当に初めてではなかったはずだ。それどころか、雨の多い土地だ、ここに来てからもう何度も目にしていたに違いない。それが彼の注意をほとんどひかなかったというだけで。

 マットは、自分が心から虹の美しさの虜になっていたことに、その日の夜、布団に入った時にようやく気がついた。彼はその時、数時間ぶりに自分の運命について思いを巡らしていた。少なくともそれまでは、彼はまだ虹の魔圏の中にあったのである。

 それから数年後、終身刑で服役していたとある年老いた囚人が、荒天時の野外での作業の後に風邪をこじらせて死んだという記事が地元の新聞に載った。作業は法律に則った手順で厳正に進められ、行政側の瑕疵は認めらないとする地元矯正局の声明がそれに付せられていた。出所したマットはその記事を読んだろうか?それは分からない。ただ一つ確かなのは、彼が塀の向こうに逆戻りしたという話だけは、誰も聞いていないということだ。