搔き乱された隠れ家

即興小説トレーニングに投稿した作品(「搔き乱された隠れ家」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。

 

 何としてもここで年を越さねばならないという気持ちになって、今日は独りでここに来た。

 警官隊の列とすれ違った。警棒やメガホンの代わりに、遺影を掲げるみたいに両手で「ステイホーム」「NO!三密」「年末は自粛をお願いします」と書かれたプラカードを握り、列をなして歩行者天国になっている目抜き通りを静かに行進していった。

そういえば、さっきぐでんぐでんに酔っ払った大学生の一団らしきものを見たが、彼らはそのうちこの葬列に捕まってしまうのではあるまいか。私は引き返して彼らに忠告しようかとも考えたが、やめておいた。どうせ当局の方だって穏便に済ませたいに決まっている。なんといっても自粛なのだ。誰であれ、隣人から大みそかに都心の繁華街を闊歩する権利をはく奪することはできない。それに、あまり忠告する甲斐があるようにも見えなかった。足元の覚束ない学生の一人が、車道と歩道の間にあるちょっとした段差で躓き、横転してあおむけになったままコガネムシみたいに四肢を宙に泳がせていた。何が可笑しいのか、彼は倒れたままゲラゲラ笑っていて、それを見た連れの数人もつられて爆笑していた。そんな有様をいま、はっきりと脳裏に思い浮かべた。

 私は葬列の進む大通りと袂を分かち、かねてからの馴染みの店へと向かった。その店は細くて、暗い、他の多くの店が勝手口やゴミ捨て場を設ける裏路地に入り口を構えている。表通りに立つ店の少なからずが冬を越すことなく撤退していったのに対して、裏路地の店はほとんどが生き残った。それは彼らがインバウンド、つまり外国人観光客をほとんどあてにせず、ごく少数の馴染みの、しかし決して裏切ることのない常連だけを相手にしているからで、私の馴染みの店もそうした店の一つだった。真っ暗な通りにボウッと浮かび上がる灯り、ごく簡素なドアの除き窓から漏れる店の光が近づいてきたとき、どっと歓声が上がるのが聞こえた。それは間違いなく馴染みの店からのもので、除き窓からはいつになく忙しく動き回るマスターの姿が見えた。

「ごめん下さい」

あまりにも忙しいのか、マスターは私が現れたことに気がつかなかった。私は気にしなかった。店内では見慣れない三人の男が一つのテーブルに座り、すでに出来上がった状態で代わる代わる酒を酌み交わしている。一人は髪を短く刈り上げ、首元にはドッグタグをぶら下げていた。体つきはがっちりしていたが、張りつめたパーカーの下腹部はだらしなく膨張している。もう一人は長髪の瘦せぎすで、片手に煙草をくゆらせながら、もう一方の手でスマートフォンをチェックしている。三人目は小太りで、他の二人に比べれば整った身なりをしているが、座り方があまりにも下品だった。刈り上げの男が切り出した。

「まったくよお、高倉のやつ。調子乗ってんじゃねえのか、え?何の返事もよこさねえなんて、人としてなってねえよ、人として。そうだろう、伊藤」

「おうよ、これは許せねえ。ほんとに誰も知らねえのか、あいつの居場所。大野、LINEとか来てないか」小太りの男が言った。

「いーや、音沙汰なし。既読はつくんだけどねえ」と、瘦せぎすの男が答えた。

「既読スルー、随分お高く留まったねえ、あいつも」刈り上げの男が言った。

ビールジョッキ三つを手にしたマスターがようやくこちらに気づき、それを三人が座るテーブルに無言で置くと、振り返って私の方に目配せした。私はマスターの指示に従い、男たちが占める店内左手奥から見て対角にある、入り口から見て手前のカウンター席に腰を下ろした。マスターが手招きしたのを見て、私はカウンターから身を乗り出して彼の口元に耳を近づけた。

「なんでも客が多いところはまずいとかなんとか言って、ここを見つけちゃったそうなんですよ」

「災難だね。おたくには」

「ええ、まったくです。一日にジョッキを9本も出すなんて、この店始まって以来の大事件ですよ」

ここは原則として静かな店だ。一見さんお断りというわけではないにしても、店ではなるべく店の流儀に従わなければならない。店に置かれているビールはほんの飾りのようなもので、つまりバーとしての要件を満たすためだけに置かれているのであって、実際に注文する人間はほとんどいないのだ。

「今日はどうします」マスターが尋ねた。

「スーズ・トニックを、頼む」

「承りました」

背後のテーブルは一層ヒートアップし、恐ろしい宴が始まろうとしていた。刈り上げの男が立ち上がり、「薩摩と獺祭、カンパリ、それにボルドー、みんな持ってきてくれ」と叫んだ。松崎というらしい。男の注文にぎょっとしたような顔をしたマスターは私に目配せしたが、私は注文通りに出してやること許した。許した、というのは、マスターが本来の流儀に反するサービスを提供したことに、私が愛想を尽かすかもしれないと、ひどく心配しているように見えたからだ。彼らは品がない。しかし、自粛期間中とあって、マスターだって金を落としてくれるなら、それはそれで万々歳というのが本音だろう。私はあくまでも、この店がずっと続いてくれることを願っている。

 計四本、まるで酒瓶の花束のようになったブリキのバケツが三羽烏のもとに届けられた。

「さあ、始めるぞ」松崎という男の号令に合わせ、宴は最高潮へと流れ込んでいった。伊藤と呼ばれている長髪の男と、大野と呼ばれている小太りの男、それに大柄の松崎は四本の、まったく種類も違えば、見た目も味もまったく異なる酒を次々に回し飲みしていった。

「たまらねえな」松崎が言った。

「いや、まったくだ」伊藤がそれに続いた。

「めんどくさいな、全部混ぜちまおうぜ」と、世にも恐ろしい提案が大野からなされ、松崎は瓶をすべてバケツから引っこ抜き、空になったそれに手持ちの酒をすべて注ぎ込んだ。それを見ていたマスターは完全に表情を失っていた。私はいたたまれなくなって、目の前のスーズ・トニックに手を伸ばした。そのとき入り口のドアが開いて、一人の女が現れた。キャメルのチェスターコートに身を包んだ彼女は、長い髪を後ろで簡単にまとめ、気の強そうな印象を与える大きな目を見開き、目の前の惨状を引きつった表情で眺めている。

「あんたたち、これはどういうこと!?」

「ああ、三宅。遅かったじゃないか」、と松崎が答えたが、しゃっくりで語尾には妙なアクセントが付け足された。

「こんな無粋な飲み方して、ほんと信じられない」

「それよりさあ、高倉のことなんか知らねえか。なんにも連絡よこさねえんだよ、あいつ」いかにも腰を悪くしそうな、座面の端っこに腰を引っかけるように座っていた大野が、背後の入り口の方に首をそらして、さかさまの姿勢でそう言った。

「高倉君みたいな人が、あんたたちみたいな人たちと年を越そうなんて思うはずないでしょ!高倉くんはあんたらとは違って、成功者なの。私たちの中で唯一の成功者なのよ。いい加減に目を覚ましたらどう?」女は腹立ちまぎれに、まったく、ぐちゃぐちゃの傑作ね、あんたたち、この意味不明なちゃんぽん酒とおんなじよ、と吐き捨てた。女の言葉には各々それなりに刺さるところがあったのか、叱咤された男たちは声を上げておいおい泣き始めた。とうとう私は席を立った。これ以上ここにいてはいけないような気がしたからだ。他人の生き恥を酒のつまみにするのは、私の趣味ではない。レジに向かうと、スーズ・トニックと席の代金、それにいつもより多くのチップをマスターに手渡した。

「せっかくの大晦日でしたのに、申し訳ありません」と、マスターが言った。

「なに、また年が明けたら来ますよ。くれぐれも、彼らからたんまりいただくのを忘れないように」

マスターは笑って、よかったら弟子の店に行ってください、あちらは静かでしょうから、と言った。男たちは依然として泣いていた。私はコートを羽織り、音をたてないようにドアを押して外に出た。ドアのぞき窓からは、大きな子供たちをなだめる面倒見のいい女の姿が見えた。呆れ顔だったが、瞳はやさしげで、その口角はわずかに上がっているように見えた。

例の兄弟店はもう二つ先の路地にあり、マスターの下で修業した30半ばの男が切り盛りしていた。カウンターだけのごく小さな店だった。まだ商いを始めてから2年足らずだが、修業期間の間に師匠の下で培われた美意識が細部にまで浸透していて、まるでもうずっと前からここにあるかのような印象を受けるのだった。これから商売を始めようという人間には決して安くない買い物だったはずの、年代物の黒檀でできたカウンターはいつも磨き上げられていて、師匠からスタイルを引き継いだ仕事服は常に清潔に保たれていた。何より好ましかったのは、若い人間の経営する水商売の店にはありがちな、空白を無理くり埋めようと付け足される絵の具のように余計なBGMが、あの店には全くなかったことである。趣味の行き届いた内装と、礼儀正しいバーテンと、よき酒さえあれば、あとは全然必要ないのだ。

 店のドアを開けると、若いマスターは奥の流し場で洗い物をしていて、私の姿に気が付いて軽く会釈した。中はいつも通り静かで、先客が一人だけいた。彼もついさっきここにやってきたばかりらしく、灰色のフロックコートを丁寧にたたんで、空いている隣の席に載せた。彼は私が入ってきたのを見ると、たたんだコートを椅子から持ち上げ、後から来る客が困らないようにカウンターの奥から二番目の席に移動して、コートは一番奥に置いた。

 私が席に着くと、コツコツ革靴で足音を立てながら、若いマスターがこちらにやってきた。

「今日は冷えますね」若いマスターが言った。

「じゃあ今日はもう早くに閉じるのかい?」

「いえ、お客さんがいるまでは。僕はこれがあるから大丈夫ですよ」

彼の足元には、果物の詰まった段ボールやゴミ箱といっしょに小型のヒーターが置かれ、電熱線が白熱して光っていた。

「今日は何にしましょうか」

「寒いからね。“グリューワイン”なんか、あると嬉しいんだけどな」

「大丈夫ですよ」

最初の注文を済ませ、コートを脱ごうとしていた私と隣の客の目が合った。感染を恐れているのか、彼はコートを脱いでもマスクは着けたままにしていた。彼の両手にはラミネート加工されたメニューが握られ、まるで言葉の分からない国のレストランで偶然同郷人を見つけたような目で私を見つめていた。私は外しかけたマスクを再び付け直してから、彼に話しかけた。

「どうかしましたか」

「いえ。ただ、あまりこういう店に来る機会がないもので、何をどうしてよいのやら途方に暮れてしまいまして。でも、あなたの頼まれた“ブルーワイン”というのは悪くなさそうですね」男はマスクの下に無邪気そうな微笑みを浮かべてそう言った。

「“グリューワイン”、“グリューワイン”ですよ。薬草やらスパイスやらがたくさん入っていて、飲むと温かくなります」

「なるほど、“グリュー”ワインでしたか。では、私もそれを一ついただきましょう。一つ、よろしいでしょうか」若いマスターは客の求めにやさしくうなずいた。

 この男からは、ほとんど来ない、どころか今日初めて酒場に入ったかのような印象さえ受けた。店内は底冷えしていたとはいえ、ヒーターの熱気が程よく循環していて心地が良かったが、男はずっと落ち着きなく手をさすっている。バーで緊張する様子は、彼の整った身なりとはあまり調和していなかった。ベージュのコーデュロイのパンツに赤いセーターを身に着け、柔らかそうな褐色の髪はワックスで丁寧に後ろになでつけられている。特別にエレガントとは言えないが、野暮な印象は全くない、ごく市民的かつ良心的なコーディネートと言えるだろう。コートを脱いだ時から、ヒースか何かだろうか、品のいい植物系の香水の香りが辺りにほんのり立ち込めていた。つまるところ、これらの要素は私に好感を覚えさせ、彼ともう少し長く会話するのも悪くないかもしれないという気を起させるに、十分魅力的だった。

「あまりお酒の店にはいらっしゃらないとおっしゃっていましたが」

「ええ」男が目を大きくして反応した。

「そうなると、数ある店の中からこのバーを選んだあなたは、恐るべき炯眼の持ち主と言うほかありませんね。ここは本当にいい店です。それとも、今日は誰かの紹介でこちらにいらしたんでしょうか?」

「いえいえ」男は笑って言った。「本当なら、今日は大学時代の友人に呼ばれていて、そちらに行くはずだったのです。彼らのいる店もこのあたりにあるようなんですがね」

「ほう」

「ただ、近くにまで着た途端に、急に足が重くなってしまって。そのまま家に戻るのも気が進まなくて、近くの路地を覗いた先にあったこの店に入ったというわけです」男は品の言い微笑みをマスクの下に浮かべ、穏やかな口調でそう言った。大の男同士の会話になったと見るや、鳴りを潜めていた彼本来の威厳が表に出てきたようだった。私は、

「もしよろしければ、何があなたの足取りを重くしたのか、お聞かせ願えませんか?」と、質問した。男は目を閉じ、こぶしを額に当て、しばらく言葉を選ぶようなそぶりを見せた後、目を見開いて私の方に向き直り、2,3秒溜めを作ってから話し始めた。

「つまり、私には彼らの前でどう振舞えばよいか、さっぱり見当がつかないのです。彼らと疎遠になってもうだいぶ月日が経ちましたが、その間、彼らと私と間にはいろいろな点で大きな溝ができていると言わざるを得ません。私自身、他人よりも増して勤勉な人間と自負していますが、実のところそれ以上に運のいい男で、努力した分、それ相応の報いを受け取ることができました。しかし、どうやら彼らはそうではないらしい。とにかく、私は彼らを傷つけたくないのです。高慢な態度に出ることが問題外であることはもちろんのこと、へりくだった態度を取るのも、それはそれで彼らを傷つけるでしょう」

それを言い終わるか言い終わらないかの時、彼は何気なく私から目を逸らした。告白の間、私は男の誇り高い倫理観に心を打たれ、沈黙していた。男の言葉には、論理を無暗に弄ぶような印象は一切感じられず、男はただ真剣に、青年の如き誠実さで問題に向き合っているように思われたからだ。しかし、彼が私から目を逸らした時、己の瞳の奥を覗かれることを拒絶したあの瞬間、私は彼の無意識がすでに問題の正答を悟っていることを見て取った。私が言うべきことは、決まっていた。

「あなたはやはり行かれるべきだと思います」

「そうでしょうか」

「ええ。あなたは二つの点で勘違いしているのです。まず、謙遜のおつもりかもしれませんが、あなたは道理もなく、自分自身の人格を彼らと同じラインにまで引き下げようとなさっている。それは不要です。あなたは高慢を嫌悪し、それを努めて避けようとなさっているようですが、あなたほど善良な人間が正道を外れることなどありえません。それよりもあなたは、謙遜が生む傲慢を避けるためにも、堂々と胸を張るべきなのです。自分が彼らと違うということを、そもそも最初から何か違ったのだということを、誇り高く受け止めるべきです」

男は険しい目で私を見つめていた。私はなおも続けた。

「そしてもう一つ。たとえ大きな溝があったとしても、飛び越えること自体は案外容易なのです。いいですか?あなたは、溝は“彼ら”と“あなた”だけの間に走っているものとお考えのようですが、実際、我々は個々に分断されていて、結局は誰もが独りぼっちなのです。しかし、本当にくだらない共通項が一つでもあれば、我々はそれをてこに、自分たちが仲間であるというフィクションをあっという間に作り出すことができます。それは虚構ではありますが、我々の関係を可能にしている最も根本的な想像力の産物なのです。私が思うに、同じ屋根の下で数時間ともにしたならば、そこに新たな関係が結び直されてしかるべきです。そこにお酒があれば、これはもう十分すぎるというほどでしょう」

「友達になり直す、ということですかね」男は静かに言った。

「そういうことです」

その時、ごとりと音がして不意に手元を見ると、たったいま私と男の前にそれぞれ、素焼きの器に入った一杯のグリューワインが差し出されたところだった。若いマスターは無言で立ち去ると、そのまま再び流しの方へと向かった。優れたバーテンは、酒を出すのに適切なタイミングをわきまえていた。

思いがけない出会いに乾杯すべく、お互いがマスクを外した時、そこにあった顔と先ほど最初の店で聞いた名前とが完全に結びついた。その顔には見覚えがあった。雑誌か、あるいはネットの記事だったと思う。男はイラストから商品デザイン、メディアインスタレーションまで手広く手掛ける事務所の代表だった。ただ、カメラマンにそれらしい表情をしたその瞬間を収められた写真から受ける、やや尊大な印象とは違い、目の間に座る男は謙虚で、ずっと素朴だった。写真では加工され、滑らかに光っていた顔の肌も、実物では鉄筆で彫り込まれたかのような皴がすでに何本も刻まれ、彼の人知れぬ苦悩を物語っていた。

「おいしい」男がグリューワインを一口含んで言った。

「ええ、本当においしい」と、私は言った。「しかし、これは案外すぐ頭に回りますから、気を付けた方がいいでしょう。お酒に弱いのではないのですか?」

「いえ。家系上、むしろ酒には強いはずなのですが、ただ飲まないんです。習慣がなくて」

「飲まれたら、すぐにでも行かれた方がいいでしょう。彼らだって、いつまでも友人の不在をネタに管を巻いているわけにもいかないでしょうから」

「なんだかご覧になってきたようなことを言いますね」

「ええ、まあ。とにかく、あなたは行かれた方がいい。でも、もしその気があれば、また戻ってきてください。私は大歓迎です」

グリューワインを飲み干すと、男は店を後にした。私は男をせかすような真似をしたことを、少しばかり後悔していた。もう少し彼と話し込んでいたかったのだ。しかし、私はすべきことをしたのだという確信に揺るぎはなかった。私が何か誤っているのだとすれば、それは年末の客を一人失った若いバー経営者に対してだろう。

結局、閉店まで男が戻ってくることはなく、いつの間にか年が明けていた。私は帰り際、いつもより多めのチップを若いマスターに握らせようとしたが、彼は断った。

「それは受け取れませんよ」、と彼は言った。「バーテンとして正しくありません」

「しかし君は客を一人……」

「そんなことより、すぐ店を閉めますから、これから一緒に師匠の店に行きませんか。新年の挨拶です。あっちはまだ開いてるでしょう」

私は、男が何時間も飽くことなく、友人たちと親しげに語り合っているところを思い浮かべた。新客のお陰で沈静化した熱気を、マスターが安心した様子で眺めている。そこに私の居場所があるとは思えなかった。

「いや、私は、やめておくよ。もう遅いから」

「いけませんね。いけませんよ、お客さん。だって私たちはこの狂った2020年を共に越した仲でしょう?だったら、我々の間には特別な結びつきが生まれたと考えてしかるべきです。親しい友人同士の頼みとでも思って、聞いてもらわねば気が済みません」

「そうかな」

「そういうことです」

 

百発百中の団地妻

即興小説トレーニングに投稿した作品(「攫うわ あなたのハート 鷲掴み」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。

 

「あっためれば食べられるもの、冷蔵庫の下の段にたくさん入ってるから!」

「分かった」

夫はパソコンを覗き込んだまま、振り返ることなく返事をした。いつもながらのことで、今更気にすることもない。買い物用手提げに、日焼け防止用の黒い遮光レース付きのつば広帽子。準備万端だ。小学校5年生の娘は夏季の集中ハイレベル講座とやらで、夜9時近くまで家に戻ることはない。二人にはママ友たちと夕食会だとすでに伝えてある。バッグまで持ち上げたところで、さきほど食べ終えたばかりのスナック菓子の袋がテーブルの上にそのままになっていることに気が付いた。私は荷物をいったん床に下ろし、空になった菓子袋を小さく丸めると、部屋の隅においてあるゴミ箱の方へと放り投げた。袋は壁にぶつかり、跳ね返るとそのままバケツの中に飛び込んだ。ゴール。

「百発百中だ」夫が振り返ることなく、言った。

「遅くなりそうだったら、連絡するから」と私は言った。

改めて荷物を拾い上げると、玄関を飛び出し、すぐさまバス停へと向かった。明大前行きのバスが到着するまであと数分、これを逃すとさらに20分ほど待たなければならない。バッグが重く、汗ばんだ手に食い込んで痛んだが、一生懸命走ったおかげで、幸い、到着時刻の3分前にはバス停に到着することができた。私は余裕を持ってベンチに腰を掛けた。今日は熱帯夜になる。すでに夕暮れ時だが、道路の向こうには逃げ水がちらつき、厚く湿った空気にヒグラシの声がこだましている。ふと足元の荷物を見遣ると、バッグの近くにペットボトルが転がっている。私は周りを見回すと、ちょうどベンチの右斜め後ろ、座っている場所から7メートルほど先に自動販売機があり、その脇にゴミ箱が備え付けられているのが見えた。遠すぎるか?ペットボトルの向きが飛行中にぶれることがないように、ちゃんと重心を確かめ、スナップを利かせて投げた。ペットボトルはミサイルのように、空中に緩やかな弧を描いて飛んでいき、ゴミ箱に空いた二つの穴のうち左側、ペットボトル用の穴へとまっすぐ飛び込んだ。気持ちがいい。思わずガッツポーズをした。正面に向き直ると、道の向こうからバスがやってくるのが見えた。なんとか間に合いそうだ。

 バスが動き出し、背後に残していった世界がどんどんと遠くなっていく。団地とはしばしの間お別れだ。明大前駅に着くと、そのまま井の頭線のホームへと向かった。18:18分発、急行渋谷行き。これなら7時までには着替えを済ませ、席に着くことができるだろう。下北沢を過ぎ、列車はトンネルの中に入る。先程まで夕日の暖色系の光に照らされていた車内が、急に電灯の冷たい光に包まれる。やや感傷的でさえあった車内の風景は、あっという間に引き締まったように見える。平日のこの時間だ。これから渋谷に行こうという者は、皆それぞれに果たすべき目的を帯びている。大きなギターケースを体の前側に抱えた若い男は、ドアに寄りかかり、ぼんやりと真っ暗な窓の向こうを眺めている。あるいは、ガラスに映る自分の顔を確かめているのかもしれない。塾から支給されている塾生お揃いのリュックを背負い、バランスを崩さないように棒に掴まる小学生は、メガネのブリッジのすぐ上にしわを寄せ、もう片方の手だけで器用に単語帳をめくっている。空いている座席の真ん中に座る、ファンシー系のファッションに身を包んだ若い女は、渋谷に近づくと眺めていたスマートフォンをピンク色のハンドバックの中にしまい、一度遠くを眺めるような鋭い目を作ってから、姿勢を正し、両掌でほほを一発叩いた。臨戦態勢だった。

 渋谷駅に着くと、すでに陽は沈んでいた。私はスクランブル交差点に飛び込む。ここを通ると、昔の感覚がよみがえるような気がして、自分がまだ団地妻の格好のままでいることを忘れそうになる。大勢の若い男たちと、それと同じくらい大勢の若い女たちは、まるでデート中に母親と鉢合わせしたみたいに、私から不自然に目をそらしたまま歩き過ぎていく。私はそのまま道玄坂を急ぐ。200メートルほど登り、振り返ると緩やかなカーブの先に渋谷駅が見えなくなるくらいの地点で、私は脇道へと逸れた。同僚のミカの姿が見える。店の入り口近くでタバコを吸っているのだ。彼女は私の姿に気が付くと灰皿にそれを押し付け、こちらに向き直った。

「ユキ…!嬉しいわ!もう来てくれないんじゃないかって、マスター心配してたんだよ!」

「でもこの通りよ」

「どうしたの?最近忙しかった?」

「まあそれなりにね」

「ねえねえ、そんなことより、新人さん入ったらしいわよ」

「美人なの?」

「女じゃないわ、男の子。新しいバイトの子。大学生だってよ」

「悪いけど、私、ガキを性的対象にする趣味はないの。知ってるでしょ」

「そうかもしれないけど、元気になるじゃん。若い子来ると」

じゃあ後で、とだけミカに伝えると、私は金色に縁取られた正面玄関の脇にある細い通路を抜け、スタッフ用の小さな玄関から中に入った。たった一本の蛍光灯が照らす狭苦しい階段を駆け下りて地階にたどり着くと、倉庫や事務室の前を通り過ぎて、廊下の奥の更衣室に入った。既に何人かがスタンバイしていた。

「あら、ユキじゃない。いつもながらすごいわね、そのカッコ」同僚のキョウコだった。

「団地妻ってのも楽じゃないのよ」

その時、キョウコが不意に私の肩を掴み、ぐっと引き寄せると、私の目をじっと見据えてこう言った。

「出戻りらしく順番はわきまえなさいよ」

「悪いけど、それってなんか札でもついてるわけ?」

「お互いが利益を確保できるに越したことはないって、そう言っているつもりよ」

私は彼女の腕を振り払い、自分の名札がついたロッカーへと向かう。ロッカーを開け、脱ぎ捨てた服をそこに突っ込む。持ってきたバッグを空け、私は商売道具を慎重に取り出した。丈の短い赤のパンチレーススカート。黒いレース地のカーディガン。ハイヒール、それに黒髪ロングのウィッグ。すべて身に着けると、そこには一人の仕事人が立っていた。

 ホールに出ると、バーテンの高橋と若い制服姿の知らない男がバーのカウンターで話し込んでいた。すでに白髪の混じる年齢となった高橋は、ここで一番長く働いている人間スタッフの一人だ。

「ユキちゃん」

「お疲れ様。その子が新人ね」

「はい。新庄です。宜しくお願いします」若い男が答えた。にっこり微笑むその顔には皴ひとつなく、肌は赤ん坊とほとんど変わらないくらいきめ細やかで、バーのムーディーな明かりに照らされて、まるで高級家具みたいに光っていた。着ているものは新品のようだが、全身糊の利いたものを身に着けているせいで、まるで着せ替え人形がおしゃまな仮装をさせられたようにも見える。

「この子は筋がいい。たぶん、一月後にはカウンターに立てるようになるだろう」と、高橋が言った。「ほら、さっき教えたとおりだ。新庄君、彼女に見せてみたまえよ」

新人店員はベテランバーテンから空のシェイカーを受け取ると、その両端を左右の指でがっちりロックし、私の方に向き直ってから得意げな顔でリズムよくシェイクし始めた。

「どうだい?このピンと伸びた背筋がいいだろう?」高橋は腕組をして、適度に伸びた顎髭をさすりながら弟子の様子を眺めている。たしかに、才能はありそうだった。ちょっとしたところでヘマをするような人間には生まれついていないのだろう。全身から程よく力が抜けていて、シェイクを終え、見えないカクテルグラスにドリンクを注ぐジェスチャーをしてみせた時も、息切れ一つしなかった。いずれにしても、私の守備範囲ではないが。

「あなた成人してるの?」私は彼に尋ねた。

「いえ、来月で二十歳です」

「信じられないわね。中学3年生でも通りそうな見た目してるわ」私は高橋に向かって言った。

「新庄君、このレディは大丈夫だが、若いと見るや否や味見したがるお歴々も中に入るから気を付けることだ」高橋はそんな風に言いながら、ゲラゲラ笑っていた。新人君の方は困ったような目で私と師匠を交互に見つめていた。

「ところで新庄君、彼女は狙撃手って呼ばれてるんだけど、いい機会だから君からお手並み拝見願ってはどうかな?」

「ほんとですか!?それじゃあお願いしていいですか…?」

支配人はテーブルの上に置いてあったワインコルクを私に手渡すと、ホールの隅のゴミ箱を指さした。

「さあ、見てごらん」支配人は言った。

およそ15メートル。親指と人差し指でつまむようにワインコルクを持ち上げると、私は目を細め、人差し指と手首のスナップを利かせてそれを放り投げた。コルクは夜空を横切る流れ星のように放物線を描き、コトンと音を立ててゴミ箱へ飛び込んだ。

「すごい。ほんとに狙撃手だ、ユキさん」

「本番はこれからよ」

私はホール中央の小さな丸テーブルの一つに腰かけた。ホールには同じようなテーブルがいくつもあり、それぞれに一人しか女は座らない。テーブルを三つほど挟んだ先にミカが腰を掛け、高橋の隣に控える新人君に臆面もなく色目を向けている。新人君はそれに気が付いているのか、休めの姿勢で下を向いたまま、顔を上に向けようとしない。そこから左60度ほど目線をずらすと、ハルピュイアのような目をしたキョウコの双眸と鉢合わせする。18:55分。なんとか間に合った。最初の波をとらえられるかどうかが勝負なのだ。

 18:58分、入り口近くで待機していた男たちがバーのカウンターへと通される。髪を後ろになでつけ、がっちりとした肩がスーツの下からでもよくわかる、日本青年会議所にでも出入りしていそうなビジネスマン風の男。ジーンズにスウェット、ニット帽をかぶり、子供っぽい目をホールの女たちに向けるIT社長気取りの男。入り口で軽く会釈し、カウンターから半身だけこちらに向けて様子を窺う芸術家然としたメガネの男。与えられた手札からステイを選択し、私はしばらく所在なく目線を彷徨わせていたが、しばらくすると視界の隅に大物の影がちらついた。この目でしかと捉えなくともわかるのだ、本当にいい男というやつは。口ひげは入念に手入れされ、先の尖った革靴は磨き上げられて黒光りしている。全体としては地味な印象だが、黒いジャケットの胸には赤いハンカチのワンポイントが顔を出し、全体の雰囲気を引き締めている。年齢は40になるかならないかだろうか。

キョウコと目線が交錯する。なるほど、そういうことか。さあ、これからが狩りの時間だ。会員制クラブ・バケット。狙った男は百発百中。団地妻にして狙撃手とは私のことだ。

日本式のテロリズム

 

即興小説トレーニングに投降した作品(「明日の神話」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。

 

 これ以上ないほどに蒸し暑い夜だった。渋谷はその名の通り谷地、落ちくぼんだ土地にあるものだから他の場所からの熱気や湿気が容赦なく流れ込んでくる。僕の無地のTシャツはすでに汗でほとんど透明になるくらいずぶ濡れで、額は地獄の窯より熱く火照っていたけれど、腹の底には冷たく蠢く重い蜥蜴のような何かを感じていた。「ファーン!!」というトラックのクラクションに驚いて、僕は肩をびくりとさせた。それを見て青島さんは笑った。

「大丈夫だって、村田君。こちとらプロなんだから。万が一のことがあっても君だけはちゃんと逃がしてあげるよ」

時間はすでに午前零時を回り、渋谷はちょうど一番人通りの少ない時間帯に入った。居酒屋やカラオケの客はすでに電車を捕まえて自宅へと戻り、パチンコ屋や風俗店の客はすでに店内にしけこんで、めいめいがしたいように夜を楽しんでいた。井の頭線の高架沿いに立つ店のほとんどがシャッターを下ろし、チェーンのパチンコ店と飲食店の二階に店を構えるソープランド、それにマクドナルドから漏れる光だけが、僕らの行く手を妖しく照らし出していた。

「さあ、ついたぞ」

東急デパートの裏手、ショーウィンドウに占められた華やかな正面とはちょうど反対側、建物の陰気な面にたどり着いた。壁一面に鉄製の非常用階段が張り巡らされていて、夜警だろうか、懐中電灯を片手に建物を上から下へ、右から左へ、端にたどり着くたびに方向転換してはくまなく動き回る人影が見える。青島さんに促されるままに、僕は高架の柱の陰に身を隠した。当の青島さんは建物に近い自動販売機へと移動し、その陰から注意深く身を乗り出して、スパイ映画さながらにビルの様子をうかがっている。警備員がビルのじゅうぶん上の方まで移動し、大人の平均的な夜目の明るさと高所の警備員の視野を鑑み、自分の姿が気色取られないタイミングを見計らって、青島さんは飛び出した。その走り方は堂に入っていて、靴の材質のせいでもあるだろうが、ほとんど足音がしない。青島さんは二階の、大変みすぼらしい矮小な従業員通用口のドアノブに——どこで手に入れたのかはよく知っている——女性ものの下着を引っかけると、非常階段と基礎部分との間に素早く身を隠し、そこに警備員が通りかかるのをじっと待った。

じきに反対側の階段から降りてきた警備員がその下着を発見すると——彼は思いがけず肥満体で、その顔は幼かった——、何度か周りの様子を窺い、それを大事そうにジャケットの内ポケットにしまい込むと、すごすごと通用口から建物の中に消えた。青島さんが僕を手招きした。口が「いまだ!いまだ!」と動いているのが見えた。僕は足先に力を込め、なるべく足音を立てないように、かつできる限りのスピードを出して走った。もっとも、ほとんどそこにいるだけで任せられた任務の大半を果たしているように見えるあの肥満体の青年なら、小走り程度でも軽く振りきれる自信はあったのだが。だいたい、懐中電灯を振りかざして歩くのは、己の居場所を知らせるだけでなく、夜目をほとんど使い物にならなくさせるという意味で愚策なのだ。だから、「そもそも侵入を試みる人間などそうそういない」という前提の下で、彼はたまに来る不届き物への警告の意味を込め、かのような業務を指示されているということだろう。そういうことだから、僕らはビルの持ち主が抱く素朴な性善説の恩恵に与って、目下渋谷駅ビルへの侵入を試みているというわけだ。

「本当に大丈夫なんですよね、これ」青島さんに追いついた僕は、小声で尋ねた。

「ヘーキヘーキ。もうこの時間になると構内はほとんど無人だから。それも既に下見で確認済みさ」

「人間は撒けたかもしれませんけど、まだ冷徹な機械が残ってますよ」

「監視カメラね。それもモーマンタイ。彼らが映像を確認するのは、何かが起きた時だけさ」

「これから青島さんがなさろうとしていることは『何でもないこと』だとおっしゃるんですか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

侵入の成功が決定的となり、青島さんはがぜん元気になったようだった。非常用階段を一気に4階まで登り、そこから僕らのいる東急デパートと井の頭線の駅が入っているビルから、JRや銀座線が入るビルを繋ぐコンコースの外壁へと飛び移った。すぐ近くに清掃員用の足場が備え付けられていて、そんなに冒険というほどの跳躍ではなかった。足場からコンコース内へと入るための扉は鍵が閉まっておらず、青島さんの得意げな表情を見る限り、これはたまたまではなくて、何かしらの方法でここを開けたままにしておいたのだろう。人のいないコンコースはがらんとしていて、普段よりもずっと広く感じられる。中は空調が利いていて、生き返る気持ちがした。

「ところで青島さん、なんで『カミカゼ』なんですか」

「ああ、グループの名前の由来?そりゃあ、俺たちのやってることが徹頭徹尾無意味だからだよ」

「いまひとつ理解できませんが」

「第二次大戦末期、幾千の大和男子が戦場の露と消えた。特攻作戦は戦機を挽回する、一発逆転の作として考案されたわけだが、結果はどうだ?全くの無意味だったじゃないか」

「でも、それで多くの人命が失われたのは事実でしょう」

「ミクロに見ればな。だがマクロに見れば、あの作戦は“詩”だったんだ」

「え?“詩”?」

「ああ、具体的な“行動”の対義語としてな。特攻隊はな、詩だったんだよ。それそのものが」まあ、三島由紀夫の受け売りなんだけどね、と付け加える青島さんは芸術家然としていた。「そうそう、それこそ村田君が毎晩見てるストリップショーとおんなじさ」

「それはいろいろと誤解を招きますよ?」

ことの始まりをいまさらながら説明すると、青島さんは僕が監視員のアルバイトをしている劇場の常連で、僕がショーを見てもほとんど興奮しなくなってしまったという話を聞いて、僕を“とっておきのアトラクション”に招待してくれたのだ。曜日を問わず、ほとんど不規則なタイミングで気ままに劇場を訪れるので、流石に勤め人ということはなかろうと思ってはいたが、なるほど、アーティスティック・アクティビスト集団総帥とは。

「ただの遊び人だよ」と、青島さんはつまらなそうに言う。

青島さんは仕事に取り掛かった。いや、無意味なのだから、仕事というよりは本当に「遊び」と言った方がいいのかもしれない。キャンプに使うような、備え付けの三脚で自立するタイプの小さなガスバーナーを取り出すと、僕にコーヒー豆の袋とコーヒーミルを手渡して、言った。

「じゃあ、村田君は豆を挽いてくれ。きっかり、116959個の豆を入れるんだぞ」

「え?そんなに多くは無理ですよ。っていうか、なんなんですか、その具体的な数は」

東京大空襲の死者数さ。まあでも、ここで11万の豆をぜんぶ粉にするのは無理だから、117粒でいいよ」

代わりに一粒一粒、心をこめて粉砕するんだぞ、という青島さんの言葉に従い、僕は丁寧に、一粒一粒がきめ細やかな粒子になるようにコーヒーミルのハンドルをゆっくり、力を込めて回した。青島さんはすで持ち込んだミネラルウォーターとやかんでお湯を沸かして待っていた。じき、用意は整った。

「じゃあ淹れよう。任せたぞ。最初はお湯を入れすぎないようにしろ。少しだけ垂らしたら、放置して蒸らすんだ。三分間は我慢だ」

僕にコーヒーを任せ、青島さんはリュックサックからおもむろに懐中電灯を取り出すと、目の前に広がる大きな薄暗い空間に光を差し込んだ。巨大な、おどろおどろしい、全身を炎に包まれた骸骨がそこに立っていた。それは絵画だった。大きな油絵だった。

「見てくれ、村田君。これが『明日の神話』だ。50年ほど前に行方不明になり、このほどようやくメキシコシティの廃屋で発見された岡本太郎の傑作だよ。こっちにコーヒーを持ってきてくれ!」

青島さんの左手には懐中電灯が、右手には酒の瓶が握られていて、懐中電灯を僕に預けると、青島さんは代わりにコーヒーの入ったカップを受け取った。

「ちゃんと絵を照らしといてくれよ」

おもむろに青島さんは酒瓶を傾け、緑色の液体をコーヒーの入ったカップへと注ぎ込んだ。

「ちょっと、せっかく丁寧に淹れたのに」

「丁寧に淹れたからこそさ。ほら見ろ、始まるぞ。この酒はアブサン。幾多の芸術家を地獄送りにした魔酒さ」

アルコールとカフェインが渾然一体となった魍魎的な液体を、青島さんは思いっきり空中へ振りまいた。液体は四方に飛び散ったかと思うと、今度は空中で一つにまとまり、絵の骸骨の方へと飛んでいった。液体は不気味な骸骨の全身をくまなく覆いつくし、その瞬間、絵がぐらりと音を立てて揺れたかと思うと、骸骨は神社の敷居をまたぐみたいな大足でこちら側に降りてきた。象牙を思わせる、関節のないしなやかな足は、ずしん、ずしん、と足音を立てることもなく、絵の架かっていたコンコースの外壁の反対側、すなわちスクランブル交差点を見下ろすガラス張りの方へと静かに向かっていった。骸骨の周りには、空母を護衛する駆逐艦のように、足のそれとほとんど同じ形をした6本の白骨が、ドローンのように自律して浮かんでいる。ガラスへと近づいた骸骨は這いつくばるように屈みこみ、窓から外の様子を覗き込んだ。2020年東京のありようを目に焼き付けているようだった。

「成功だ。成功だよ、村田君」

「それで、このあとどうなるんですか?」

「なにって、どうにもならない」

「どうにも?」

「ああ、どうにも」

「優しいテロリズムですね」

「日本流のテロリズムかな」

その時、僕らの目の前を鳥の群れが勢いよく横切っていった。が、ここは屋内だった。それは鳥ではなく、それまで骸骨の周りに浮かんでいた6本の骨だった。先程まで母艦の周りでおとなしくしていたのとは打って変わって、今度は隊列を組んでコンコース内の空間をぐるぐる旋回している。苛立っているようだった。いっぽう、骸骨の方は、外の景色に見入って身動き一つしない。

「この骸骨さん、外に出たいのではありませんか?」僕は青島さんに言った。

「そう思う?うーん、でもそれは困るねえ。まあ、そもそもこの大きさじゃ出ようがないけど」

その時だった。旋回していた骨の群れが中空でその動きをぴたりと止め、ポチャリ、静かな水面を打ったような音がしたかと思うと、6つの骨はあっという間にその形を失って液体と化し、間も無く滑らかな表面を持つ卵型の物体に変身した。内部で幾重にも反響し、増幅したかに思われるくぐもった音が、広い空間に不気味に響き渡っていた。中で何かが起こっているのは間違いなかった。なんだかすごくマズイ予感がして青島さんの方を見遣ったが、彼は出来上がった肖像画を眺める絵描きのようなゆったりとした態度で目を細め、のんびりと事の次第をうかがっていた。やがて6つの卵の中から6羽の白い鳥、ではなく6機の紙飛行機が飛び出し、何度か先ほどのように編隊を組んで中空を旋回すると、僕らが入ってきた外壁に出る扉から一列になって空へと飛び去った。

「大丈夫ですか…?」

「問題ない。多分、ニューヨークかワシントンか、どっちかの街の空を旋回して戻ってくるだろう。明日の朝にはきっと、すべてが元通りになっているはずだ。あれは所詮、絵だ。詩なんだよ。何もできやしない」

今日は8月15日、終戦の日だった。

虹よ、この世の塵芥を照らしたまえ

即興小説トレーニングに投稿した自作小説(「虹よ、この世の塵埃を照らせ」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。

 

 その日は朝から雨が降り出し、それでまだ月の半ばだというのに、すでに今月だけで10日間降水を記録したことになった。雨の多い地域に共通してみられる特徴として、死んだ動植物がなかなか分解しない結果、土地は泥炭層と呼ばれる重くやせた土壌に覆われているので、何かに使われ得るとすれば、それは畜産業と決まっていた。ここもやはり例外ではなく、村の中央に位置する刑務所を取り囲むように養豚場が立地していた。それで、ここは田舎の農村であるにも拘らず、しじゅう何らかの騒々しさに支配されていたのである。昼間は豚たちのいななきが豚舎から、夜間は鬼の啼く声が格子戸から村中に響き渡っていた。

 その日の雨はすさまじく、年老いた囚人グリーンは牢屋の窓から10メートルと離れていない豚舎からの鳴き声が聞き取れないのを確認すると、ゆっくりとその場で屈伸運動を始めた。雨に濡れる前に、十分に体温を上げておかなければ危険なのだ。

 老人の勤労時間はすでに終わっていたが、ほどなくして彼を呼びに看守がやってきた。看守は手短に、「やってくれるか」と尋ねると、老人は「うむ」と答えた。看守がカギを開け、老人は牢屋を出た。看守の手からワックス加工された鉛色のレインコートと長靴を受け取ると、外で待機していた二人の職員に付き添われて、刑務所の敷地の外へ出た。門の前には、これまた別の職員に付き添われた若い囚人が待っていた。

「よく来た。広い空と対面するのは久しぶりだろう」強い雨の中、聞き取れるように若い囚人と至近距離まで近づいて、グリーンは言った。三人の職員に表情は乏しいが、二人の囚人が接近した時、にわかに緊張が走った。

「仕事はなんだ」

「勤勉な男のようだな。いいだろう、説明する。お前は知らないかもしれないが、ここの連中が雨の日を平穏に過ごせるのは、お前がこれからする仕事があってこそなのだ。あれを見ろ」

グリーンは道の両端に整備された側溝を指さした。水は黒く澱んでいる。

「ここは知っての通り、養豚場のど真ん中にある。それで、こうしてしこたま雨が降ると、豚小屋からクソやら何やらがここに流れ込んでくる。俺たちの仕事は、それをとにかく滞りなく下流へと流してやることだ。これを使う」

職員が若い囚人とグリーンに、それぞれデッキブラシを手渡した。

「こいつを遠慮なく澱みの中に突っ込んで、外へ掻き出せ。水のあるうちに流しきれなければエライことになるぞ。晴れてから太陽が当たると、ここらににおいが充満して、おそらく今夜は誰も寝られなくなる」

「俺のヘマだと知れたら、ふくろだだきだろうな」

「そういうことだ」

「ところで若いの」

「なんだ」

「名前は?」

「マティアス。マットだ」

「わかった、マット。じゃあ、どぶさらいに大いに精を出してもらおう。我らが囚人に許されし唯一の安息の地、眠りの王国を悪魔アスタロト(※悪臭で知られる)の手から守れ」

 マットはグリーンと同じ側溝に降り、慣れた老人の手つきを観察して、見よう見まねでデッキブラシを動かしていた。業務に関すること以外、つまり囚人間の私語は原則として厳禁だったが、雨音が声をかき消してくれたので、彼らは互いに近寄れば、職員に制止されることなく会話することができた。グリーンが口を開いた。

「ところでマット、お前さん今日はどういう成り行きでここに来た」

「賭博がバレた」とマットが答えると、老人はケラケラ笑った。

「そんなことだろうと思ってた。気づいたら手前だけ除け者で、全部おっかぶせられたって、そういうオチだろう」

マットは黙して答えず、デッキを側溝の奥深くまで突っ込むと、力いっぱいヘドロを持ち上げて下流の方へと投げ棄てた。一度にたくさんやろうとするな、腰を痛めるぞ、とグリーンは言った。

 今度はマットが口を開いた。

「あんたこそ、なんでこんなことをしているんだ」

「なんでと言われてもな」

「報奨も減刑もないんだろう、どうして毎回こんなことしてる」

「まあ、たまには体を動かすのも悪くはないぞ」

二人は顔を向き合わせることなく、同じ方向を向いたまま会話していた。マットが首を動かさずに、瞳だけをグリーンに向けて合図を送った。

「安心しろ、俺は口が堅い」若い囚人は言った。

「話が読めん」

「もったいぶるな!なにかあるんだろう」

「悪いがお前さんが期待するような裏事情はどこにもないぞ。これはただの趣味、ボランティアだ」

ここまで来て、ようやく職員の一人が近づき過ぎた二人を警棒で引き離した。朝から降り続いていた雨は次第に弱まりつつあり、西の空にはすでに青空ものぞきつつあった。

イムリミットが近づいてきて、見守る職員たちも落ち着きがなくなってきていた。職員は二人を上流と下流に大きく分かれさせ、若い方を、重みで沈んだ汚物が残る上流で働かせ、老人の方を下流で待機させた。会話を途中で遮られ、昂る神経に未だ追い回されていたマットは、独り己自身に語り掛け、心の中で発話を継続していた。これが老人ってもんだな、老い先長くない人間はかえって気楽なもんだ。あのぶんじゃ、一生牢を出ることはないんだろう。しかし、いつか牢を出られる日が来ることを知ってるってのも、ほんとはそんなにいいもんじゃない。この刑務所はタイムマシンだ。俺はここからさらに数千回、天気以外のすべてが同じもので出来ている一日を繰り返して、カレンダーの上で十数年後のある日、十数年後の未来へ突然放り出されることになる。不確定な何かを、先の読めない何かを手をこまねいて待っているよりほかないんだ。いや、俺は来るべき不明瞭な未来のためにできるだけのことをしていた。だだ、その全てが裏目に出たというだけだ。職員に注意されることも顧みず、若い囚人は手を止め、天を仰いだ。雲の隙間から太陽が覗き、眼の上にかざした手のひらにほのかな温かさを感じた。

職員が作業の終了を宣言した時、太陽はすでに傾き、空はオレンジ色に染まっていた。雨はまばらになり、水嵩の減った水路は一応底が見えるくらいの透明度を取り戻していた。疲れ切ったマットはレインコートを脱ぎ、ほてった体を夕風にさらしながら棲家の入口へと歩き出していた。

「おい、若いの。これを見ないんじゃ、お前、人生損してるぜ?」

グリーンが言った。マットは背後の老人に振り向くと、彼が見上げている方向へと目を向けた。虹がかかっていた。若い囚人はその自然現象の美しさに不意を打たれた。

「長くこなしてりゃあ、たまにこういう日もある。運がいいな、若いの」老人は言った。「虹ってのは、晴れていても、雨が降っていても見えないんだ。その中間じゃなきゃ、見えないんだ」

職員もグリーンを制止しようとはしなかった。それは会話ではなく、ほとんど老人による独り言だったから。それに、彼らは作業が無事完了したことに心から胸をなでおろしていた。今夜いい夢を見られるかどうかは、ここに昼夜を問わず詰める彼ら自身にとっても大問題だったからだ。若い囚人はというと、その時、自分が人生で初めて虹を見たような気がしていた。無論、本当に初めてではなかったはずだ。それどころか、雨の多い土地だ、ここに来てからもう何度も目にしていたに違いない。それが彼の注意をほとんどひかなかったというだけで。

 マットは、自分が心から虹の美しさの虜になっていたことに、その日の夜、布団に入った時にようやく気がついた。彼はその時、数時間ぶりに自分の運命について思いを巡らしていた。少なくともそれまでは、彼はまだ虹の魔圏の中にあったのである。

 それから数年後、終身刑で服役していたとある年老いた囚人が、荒天時の野外での作業の後に風邪をこじらせて死んだという記事が地元の新聞に載った。作業は法律に則った手順で厳正に進められ、行政側の瑕疵は認めらないとする地元矯正局の声明がそれに付せられていた。出所したマットはその記事を読んだろうか?それは分からない。ただ一つ確かなのは、彼が塀の向こうに逆戻りしたという話だけは、誰も聞いていないということだ。

紅薔薇の惨劇

即興小説トレーニング投稿作品

「紅薔薇の惨劇」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com)

の改稿版です。

 

 柱時計が時を告げた。アルフォンス・グレーバーは今日二度目の睡眠から目を覚まし、人前に出るには恥ずかしくないだけの身支度を整えて、若者らしい血色のいい表情で、二階の寝室からホールへと続く階段を下りているところだった。階段の途中にある踊り場には飾り窓がはめ込まれ、そこから色付きガラスを通して庭を見渡すことができる。すでに始業から5時間近くが経って、染色し終えた糸を背中のバスケットに担いで庭を横切り、屋敷の反対側にある倉庫へと運んでいく工女たちの姿を見下ろしながら食卓へと降りていくのが、この放蕩息子の日課であった。しかし、今朝は少しばかり事情が違った。階段を下りた先にはすでに多くの人間が詰めかけていて、その全員が、めいめいが可能な限り美しく着飾っていた。それに比べると、アルフォンスのみなりは幾分ラフなものではあったが、彼が気後れする道理はどこにもなかった。

「貴公子がおいでだ。今日もお麗しいこと!」

人々はアルフォンスの姿を認めると、あらん限りの賞賛の言葉を述べ立てた。それは、この放蕩息子がこの地方の繊維産業を取り仕切るグレーバー商会の御曹司であり、それゆえ社会的に地位を認められていたというだけではなく、その美しさをして神からも認められていたからでもあった。普段着用の長ズボンを履き、すこし皺のよったワイシャツといういでたちは、なるほど、服をかぶせられる素材のすばらしさなくては、決してこのようなフォーマルな場で認められることはなかっただろう。

 やがて、エメラルド色に輝くサテン地のジャケットに身を包んだ一人の紳士が、人混みの中から御曹司の前へと躍り出た。彼は市民服の普及により斜陽になりつつある自身の業界、すなわち高級紳士服産業とグレーバー商会との永遠の同盟関係の保証を得るべく、はるばるカールスルーエからここラインガウの地までやってきたのである。

「どうぞ、お見知りおきを。坊ちゃん」

「いやあ、もう君のことは父の代からよく聞いているから、全然自己紹介なんて必要ないだろうに」

「友好は日ごと新しくせねばなりませんので」

友好的な微笑みを取り繕ってはいたが、彼は一刻も早くこの男の前から立ち去りたくてしょうがなかった。彼がやってきた理由など問うまでもないのだ。残念ながら、アルフォンスがこの紳士の経営する工場との契約打ち切りを宣言するのは時間の問題である。あるいはそれ以上に、この紳士の格好の方が気に障った。ジャケットは自前の商品なのだろうが、それにシルクのパンツを合わせるなど考えられない、まるで下手な貴族の仮装をした田舎の地主のようじゃないか。

 また後で話そう、とだけ念を押すと、貴公子は田舎貴族から離れた。次から次へと押し寄せる、まぶしいほど煌びやかな雑踏をかき分けつつ、アルフォンスはほかの出席者たちにも適当に挨拶を済ませると、屋敷の玄関へと続くホールの入り口に待機していた執事のもとへと急いだ。このエルンストという名の執事は、既にこの家に30年ほど仕え、この手のパーティーを始めとする屋敷で執り行われる行事の大部分で人員を指揮する役目を担っていた。が、近頃は視力がとみに衰え、自ら客を案内したりすることはせず、使用人たちを効率的に指揮することに集中していた。今日はレセプション担当である。

「エルンスト、リーゼは来てるか」

「ええ坊ちゃん。いらっしゃっておりますとも。坊ちゃんの言いつけ通りに、万事計らいましてございます」

「よくやった」

アルフォンスは執事の胸に赤いバラのコサージュをみとめたが、彼がそれについて言及するより、執事が御曹司の所望するものを指さすのが先だった。老執事の指さす先、壁際へと寄せられた長いテーブルにはこの地方で採れた作物で調理された食事が並べられ、リーゼという名の女はたった今、チーズを添えたカナッペを口に放り込んだところだった。駆け寄ってくる貴公子の姿を認めた女は、急いで口の中のものを飲み込むと、すました顔で男を出迎えた。

「ご機嫌いかが?」

「上々だよ。エルンストに呉服屋まで走らせた甲斐があった。今日の君は本当に美しい。いつもの薄汚れた作業着に身を包む君も、それはそれで僕の目を楽しませてくれるというものだが」

「私のような者がこんな会にお呼びいただけるなんて、坊ちゃんにはなんとお礼を申し上げたらよいのやら」

女は上目遣いに言った。さながら若き女主人だ。時折きまぐれに見せる、工女らしからぬ生意気な態度もまた、彼を魅了する要素の一つだった。

「硬いことを言わなさんなよ。いつも通り、僕の前では堂々としているがいいさ。君の風格と今日の衣装があれば、王家の舞踏会に紛れ込んだって気づかれんだろうに。ところで、そのバラ、よく似合っているようだ」

女のドレスの襟ぐりには、老紳士のとよく似た赤いバラのコサージュがあしらわれていた。それは白を基調としたシックなドレスとよく調和していた。よく見ると、女のほかにも何人か、赤いバラを胸元にあしらった参加者がいるようだった。

「僕もバラは好きだ。これほどまでに人間を華やかに彩ってくれる花は他にないからね」

「でも私が好きなのはバラではなくて、赤いバラですわ。坊ちゃん」

「ふん?バラではなくてかね?そういえば、今日は赤いバラを差している人間が多々いるようだが、どうして“赤い”バラなんだ」

「宗教上の理由みたいなものですわ」

女のミステリアスな言動に、貴公子の心はより一層、女に引き付けられていった。

 ジプシーの楽団が裏手の通用口から姿を現した。いよいよ後半戦に突入し、立食パーティーから舞踏会へと姿を変えようとしていた。

「君は僕と踊ってくれるね」

「ええ、もちろん。でもお気をつけになって。バラは人を刺しますから。手折られるだけでは、決して済まさないのです」

音楽が軽快に奏でられ、若い出席者を中心に、ホール中央で社交ダンスが始まった。貴公子は美しく着飾った工女をその胸に抱き、興奮した面持ちでステップを踏んでいた。一巡する度に、選ぼうと思えばいくらでも女を選ぶことができたアルフォンスだったが、彼は何度でも工女に踊りを申込み、彼女もそれに従った。ダンスが最高潮に達した時、女は男を強く抱き寄せると、その唇に接吻した。男は幸福の絶頂にあった。

 その時であった。仮面を外したかの如く、突如として冷厳な瞳を浮かべた女の口からサボタージュの決行が宣言されたのは。

「お前は大地への裏切り者だ」

接吻が合図となり、それまで和気あいあいとしていた参加者たちの何人かが血相を変え、胸からピストルを取り出すと、他の参加者たちに向けて発砲した。

「労働者の団結のために!」「ブルジョワどもを打ち倒せ!」「耕しもせず、紡ぎもしない怠け者たちに鉄槌を」

銃を手にした人間たちの中には、あの執事エルンストもいた。

 旧世界の遺物たちがこの世の生き地獄を見ていたころ、その最後の一輪たる貴公子は血だまりの中に独り倒れていた。生命力は瞬く間に流れ去り、幾万の富で養われた血は、大地を潤すことなく絨毯へと吸い込まれていった。バラは手折られるとも、けっしてタダでは済まさなかったのである。

 赤は、社会主義者たちのシンボルカラーだった。

画家の収支、リスの冬支度

  即興小説トレーニングで書いた作品(「画家の収支、リスの冬支度」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。いろいろと甘いですが、ひとまず形になったので、取り急ぎ。

 

 秋は深まり、サッシ越しに眺める庭の景色からも、日ごとに冬の足音が近づいてきていることが感じられた。五日ほど落ち葉掃きをさぼっているが、庭は早くも自然に征服されそうになっていた。ここに越してきてすぐ、朽ち始めていた柵や郵便受けの支え、家の柱なんかをみんな白いペンキで塗り直してやったのだが、今は落ち葉や埃のせいで、すべてがなんとなく煤けたような印象を与えている。古いサッシがイカレ始めていて、劣化したゴムの隙間から外の冷気が入り込んでくる。秋にもかかわらず、俺は室内での厚着を強いられていた。

 一匹のリスが、サッシの外を横切っていった。冬ごもりの支度をしているのだろう。彼らに残された時間はそう長くないに違いない。リスの姿を追いかけて、行く手の方を見遣ると、ちょうど庭の古いリンゴの木に空いた洞の中へと飛び込むところだった。

 …さて、俺は俺でタイムリミットが迫っているのだ。外のフォトジェニックな光景から、部屋の中に広がる混沌とした現実へと向き直った。このところ、十和子は大きなプロジェクトに関わっているとか何とかで忙しくしていたから、こっちに来ることは全然なかった。それでこのありさまだ。いつも彼女が家に来るときだけ片付ける、ずぼらな男だということがよくわかる。この季節は洗濯物もそんなに多くないし、などと考えているうちにバスケットはあっという間に一杯になり、壊れたサッシから砂や塵が中に入ってくるのだろうか、散らかった画材や道具、紙類がみんな薄っすらと埃をかぶっている。十和子がコンスタントに来てくれるならねえ…、なんて、田舎独り暮らし男の戯言はここまでだ。

 最優先は散らばった書類だ。これをなんとしてでも片付けなければならない。できれば、十和子の目の届かないところに。急いで書類の山を取りまとめていると、山の中に覆い隠されていたのだろうか、イーゼルが姿を現した。そう、カンバスを立てかけて絵を描くための台だ。たまにはスクリーンじゃなくてカンバスを相手にしようと、春ごろに倉庫から引っ張り出してきて以来、もう何か月も使っていない、イーゼル

 

 十和子は僕の現実を知らないのだ。彼女は僕のことをまだアーティストだと思っているに違いない。自分もかつてはそう思っていた。でも3年ほど前からだろうか、それ以降の自分はもうアーティストではなくて、職人、具体的にはイラストレーターと捉える方がよほど妥当だし、しっくりくるような気がしている。

 彼女と知り合ったのは美大にいた頃だ。あの頃はお互い、美大生らしく年相応にトンガっていた。くたばれ村上隆とか、打倒バンクシーとか、あの年頃の絵描きもどきにとってそういう愚痴や悪口は共通言語の一種、互いを同類と認識するためだけの符牒、言うなれば挨拶みたいなものであって、それ以上でもそれ以下でもないのだけれど、それでも心の底ではなんとなく、「自分は他の連中とは違う」って、そう信じていた。その点は、十和子も似たり寄ったりだったと思う。俺が油絵コースだったのに対して、あっちは彫刻コース。彫刻っていうのは恐ろしく体力勝負な世界で、なんとなくあの界隈全体には美大らしからぬ体育会的な空気が立ち込めていたのを覚えている。十和子はその中でもホントに男みたいなやつで——って言うと本人は怒るんだけれども——、俺にはそれが実に気に入った。作業中の十和子は実際すごかったんだ。鬼気迫る勢いで、何時間でもぶっ続けで鑿をふるっていた。他の連中には絶対負けたくない、そういう気迫がビシバシ感じられた。

 そんなだから、彼女が普通に就職すると言い出した時には、なんとなくこっちの力が抜けるような気がした。勝手な話かもしれないが、裏切られた、そんな感覚さえあったのだ。一度就職すると決めた後の十和子は実にあっさりとしていた。石膏まみれのオーバーオールからカラス色のリクルートスーツに着替え、この3年間彫刻のことしか考えてこなかった人間とは思えないほどにそつなく就活をこなし、早々広告代理店への内定を貰った。今はイベントプランナーとして働いている。

 お前はどうなんだって?俺か…、その質問に答えるのは簡単じゃないな。結論から言えば、実のところ、今はまっとうに暮らせるだけの金を自力で稼げている。美大ってのは、そもそも卒業生の約半分が行方不明になるような魔境であって、俺もその失踪者リストに名を連ねる人間の一人だったのは事実だ。卒業以来進路報告をしていないから、残念ながら、俺は未だに行方不明者扱いなのかもしれない。十和子が就職した一方で、俺は卒業後もしばらくアーティストとしての道を模索した。生活費を安く抑えるために、住まいを田舎に移したりして何とかやりくりしていたのだが、それも5年で限界が来た。そして俺は、当時アーティストを自認していた身としてはやや屈辱的でさえあったけれど、絵画のほかに、イラストレーションにも手を染めることになった。

 最初はほんの小遣い稼ぎのつもりだった。それがどうしたことだろう。こっちに越してきてから見かけるようになったリスを、落書き気分でデフォルメしてキャラクターに仕立て、出来心でツイッターにアップしてみたら、これがあっという間に拡散した。人気ユーチューバーの目に留まってアイコンに使われたと思いきや、今度は公開中のアドレスに仕事の依頼がわんさか舞い込んできて、そうして増えるイラストの仕事をこなしているうち、イーゼルもカンバスも埃をかぶることになったというわけだ。南無三。

 

「これはいつになくすごいね」

「お褒めの言葉をどうも」

なんとか書類は片付けたが、その代わりに掃除機や洗濯物、倒れたイーゼルやカンバスは断腸の思いで諦めることにした。それで、いち社会人としてのメンツは失われたが、アーティストとしてのメンツは守られたというわけだ。…まあ、本当に守らなければならないものなのか、今となってはよく分からなくなってきているのだが。それでも、十和子はまだ、アーティストとしての俺を尊敬してくれている。もうあの太っちょリス(例のキャラ)が世に出てから3年も経つけれど、今度こそ、いや次作こそは、なんて考えているうちに、世間の認識も、俺自身の生活も、イラストレーターという肩書を日ごとに裏付けるものになり、アーティストとしての自分はどんどん遠ざかっていく。

「落ち葉がすごいんだもん。車で着いたとき、廃墟になってるのかと思ったよ。ダメだよ、これじゃ。まずちゃんと生活するところから始めなきゃ。学生の時みたいにいつでも私がやってあげられるわけじゃないんだから」

「ビールくらいしか出せるものないけど、飲んでく?」

「うーん、出来るならコーヒーの方がいいかな。今日は暗くなる前に戻んないといけないから。それに、ここちょっと寒いし」

「サッシがイカレてるんだ」

十和子は窓際の方に向かうと、サッシを何度か開け閉めして調子を確かめた。十和子は目を細くして、僕の顔をじっと見つめた。

「出してあげましょうか?」

「何を?」

「そこまでひとに言わせるつもり?」

「サッシの修理代も渋るくらい落ちぶれているわけじゃないよ」と俺は答え、コーヒーを準備するためにサッシとは反対側の壁に備え付けられたキッチンへ向かった。北側に面したキッチンは薄暗く、シンク下の棚に収納したコーヒーの粉の缶を見つけ出すため、しゃがみ込んで、棚の中をちゃんと覗き込まなければならなかった。その時、背後で十和子が歓声を挙げるのが聞こえた。

「リスだ、リスだよ、リスじゃん」

なんとなく背筋が寒くなるような気がしたが、書類は片付けたはずだったので、俺は落ち着いて背後を振り返った。見ると、サッシを挟んで、十和子と一匹のリスが向かい合っている。胸にどんぐりを抱え、人間を前にしても不思議と逃げることはなく仁王立ちするリスに対し、十和子はしゃがんで目線を近づけようとしていた。俺がそっちに近づいたとき、本当の意味で寒気がした。十和子がしゃがんでいる足元のすぐ近く、洗濯物の山のふもとに、片付けの際に見落としたとみられる書類の一片が覗いていたからである。リスを驚かさないように、俺は十和子の背後にゆっくりと忍び寄り、洗濯物の下に覗く書類を、足でそっと山の中に押し込んだ。

「そっか。ここでリス見るの、はじめてだったか」

「うん」

目に見えない異変を察知したのだろうか。リスはびくっと体を震わせたあと、2,3回あたりを見回すと落ち葉の方へと飛び込み、素早くどんぐりをしまい込むや否や、先ほどのようにリンゴの木の洞へと消えた。

「片付けない美徳ってのも、あるってことだな」

「なにそれ。だからリスと一緒に暮らせますって?じゃあこの部屋は誰が何を隠すのかしら」

答えに窮する俺を、彼女が申し訳なさそうな顔で眺めていた。別に俺を困らせようとして、そう言ったわけではないのだ。ほんの冗談で言ったつもりのことが、思わぬ地雷を踏んだ格好になって、十和子も困惑しているのだろう。保証するが、十和子はいい女だ。こんな意地っ張りの男にいつまでもついてきてくれるのだから。

 一緒にコーヒーを飲んだ後、十和子は宣言通り、あたりが暗くなる前に車で都会へと戻っていった。部屋はまだ片付いていない。久しぶりの来客とひやひや体験とで疲れてしまった俺はキッチンの椅子に座り、夕日の中で次第に闇に包まれていく庭を眺めていた。スニーカー大の茶色い物体が、サッシの向こう側で慌ただしそうに往ったり来たりするのが見えた。また、あのリスだ。キッチンから眺めていると、リスは急に動きを止め、目が合った。途端にリスはピンと背中を伸ばし、その拍子に腕の中のどんぐりを取り落としたかと思うと、一目散に巣穴へと逃げ帰った。夕日の中、どんぐりだけが軒先に残された。俺は立ち上がってそっちの方へ歩いて行き、サッシを開けてスリッパを履くと、取り残されたどんぐりを拾い上げた。

「ちゃんと片付けなきゃな」

俺は隣人の住まいを脅かさないように、リンゴの木から少し離れた場所の落ち葉をかき分け、剥き出しになった土をほじくると、そこにドングリを埋めた。埋めた後は、彼らがするようにちゃんと落ち葉をかぶせた。さあ、俺も部屋を片付けることにしよう。十和子が次来るのは一か月後か、三か月後かさっぱり分からないが、今回のような思いをすることがないように、なんとしても部屋に秩序を取り戻さなければならない。

 さきほど足で洗濯物の山に押し込んだ紙を拾い上げると、それは今朝仕上げたばかりの新キャラクターのドラフトだとわかった。新キャラクターといっても、既存のリスのデザインに、人間の職業をイメージした服をつけ足しただけのものなのだが、いずれにしても、これはイラストレーションで食べている俺にとっては重大な財産だ。この仕事をちゃんとクライアントに届けることができなければ、冬が越せなくなる恐れがある。最悪、サッシの修理代を工面できなくなるかもしれないからだ。警官や教師、料理人や花屋に扮した十数匹のリスが描き込まれたそれを、十和子の目に触れることのないように、作業机の鍵付きの引き出しの中に丁寧にしまい込んだ。丁寧にしなければ気が済まなかった。だって、リスとはこれからも長い付き合いになるだろうから。

晩秋の闇に包まれて

 下記の小説は「即興小説トレーニング」(即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))様の場において、その名の通り即興で、一時間限りの制約の中で書かれたものの完結版です。未完に終わってしまったのが悔しくてならず、Wordに場を移してから30分ほど延長し、この原稿に一応のめどをつけることにしました。この愉快な遊びに全力で集中していた、あの一時間の痕跡をそのままにとどめるべく、推敲等は努めて避けるようにしました。よって、見苦しいところも多々ありますが、それはそれとして温かい目で読んでいただければ光栄です。

 

晩秋の闇に包まれて

 

 渋谷から一駅、こうも雰囲気が変わるものだと、いつもながら感心する篠崎が腰を掛けていたのは、代官山の旧山手通り沿いのカフェだった。ちょうど昼時で、向かいにあるエジプト大使館からいかにも中東系の男たちがぞろぞろと出てきたところだった。顔を見上げれば渋谷スクランブルスクエアのまぶしいガラス張りの壁面がそびえ立ち、ピカピカに磨き上げられた窓に映る青空のお陰で、背景の色と心地よく同化していた。篠崎がこの昼時の時間をここで過ごすようになってから、およそ2週間が経過していた。デザイナーとして大きなプロジェクトを終え、今はちょうど脱力期、ささくれ立っていた神経が二日酔いの後みたいに鈍麻して、心地よいが不安も感じさせるような安寧に浸っていた。つまるところ、彼は暇だった。
 秋の空は夏の空よりも上品だという理由で、彼はこの季節を好んでいた。原色の目が覚めるような水色は、もう30半ばを過ぎた彼には似つかわしくなく、ちょうどパステル色の、淡い儚さを湛える秋の空の色はずっと好ましいものに思えた。夏の空の青さは、渋谷にはふさわしいが、ここ代官山には不釣り合いだ。彼はコーヒーを片手にそんなことを考えていた。いい日だった。
 通りに面した野外の席に座り、ここ2週間、通行人を観察して過ごしていた篠崎は、ここがどんなに閉鎖された町であるかということを今さらながらに思い知ったところだった。この時間、ここを通る人間はいつも決まっていて、カフェに集まる顔ぶれにもほとんど変化がない。そんなことだから、昼時、勤め人ならさっさと昼食を取り、足早にオフィスへと戻らなければならないような時間に、全くの新顔が現れたことにいち早く気がつくことができたのだろう。白いワンピースにカンカン帽、小綺麗に装った若い二十歳過ぎの女が彼のすぐそばの席に腰掛けた時、彼は彼女の新奇さを見逃さなかった。そして、その後に待ち受けている展開さえも…
「それ、フランス語なんです。こちらをどうぞ」
声を掛けられた女はびくっとしたが、すぐに篠崎の言うことを理解したらしく、篠崎の手から日本語版のメニューを受け取った。女は席についてからというもの、見慣れない言語で書かれたメニューに困惑していた。恐らく、これは「カフェー」なんだろうけれど…、アルコール入りとか出てきたらどうしようか、そんな様子を見かねてか、あるいは見透かしてか、篠崎は声をかけたのである。
「少し古い趣味ですね。60年代のカフェで見られたような演出だ」
「ええ、ちょっと驚きました。でも、ありがとうございます。どうしようかと思ってたので」
篠崎は女のやや季節違いの格好を目ざとく観察しながら、適当に新顔に勧めるべきものを勧めた。女は手堅く、警戒のポーズを未だ崩そうとはしなかったが、篠崎にはとっくに分かっていた。この時間、デザイナー然としているかどうかはともかく、有閑者気取りの清潔な格好の若い男に話しかけられたことに、女が少なからず喜んでいることに。注文を取ってやったタイミングで、彼はさりげなく彼女のテーブルへと移った。なんでもない話をしている間も女は顔を紅潮させ、どこか心あらずという雰囲気であった。『付き合ってみるというのも、悪くないかもしれないな』、篠崎にはそんなイメージが浮かんでいた。一時間弱が経とうという頃、タイミングを見計らっていたようであった、立ち上がってギャルソンを呼んだ。
「楽しい時間でした、本当に」
「ええ、僕こそ。またいらしてください。僕はどうせしばらく、この時間はここにいるでしょうから」
ギャルソンが現れると、篠崎は素早く財布を取り出し、「二人、まとめて」と告げると、クレジットカードを手渡した。
「困ります」
「いえ、困るのはこっちですよ。こんな場面で年長者が払わないのでは、男が廃るどころか、大人として失格ですからね」
でもその代わり————、
「あなたの時間をほんの少しだけいただけませんか?」
女ははにかみがちに頷いた。
「でもその前に、」
女はハンドバックから錠剤を取り出すと、いくつか手に出し、口に放り込んだ。
「どうしても、これは飲んでおかないと」

 女は杏(アン)という名だった。篠崎とアンは向かいの大型書店に行って外国の写真集や、過去の展覧会の図録を眺めたりした。書店の設備は充実していて、一階が書籍コーナーになっているほかには、二階にちょっとしたギャラリー、音楽ブースなどが併設され、一日過ごしても飽きることがないようだった。とはいえ篠崎は分をわきまえていたので、2時過ぎになると店を出て、彼女を駅の方へと送った。途中、アメリカンテイストの服屋がある。篠崎は時折ここに入って、趣味にあった服を買いそろえていた。もう50年以上続く店で、そうでありながら店も、商品も、店員にも全く古びたところは感じられない。彼がここに住むようになったのは、この店の存在もある。彼はそれとなく店に目を向けると、女はあまり乗り気ではないような様子をしている。確かに、趣味は合わないに違いない。服屋なのは見れば明らかだが、店内は演出上、常時薄暗く保たれていて、やや入り辛い雰囲気を醸し出しているのも事実である。なにより、店の中から立ち込める電子タバコの匂いを嫌がっているのではなかろうか、篠崎はそんな風に考えて、そのまま店を後にした。

 それから、篠崎とアンは例のカフェで顔を合わせるようになった。ごくごく、健康的な付き合いである。というのも、アンの方は決まって、日が暮れる前に帰ってしまうからである。篠崎は露骨に残念がってみせ、女を引き留めようとしたが無駄だった。篠崎にとって奇妙だったのは、女もまた、戻らねばならないことを本当に残念がっているように見えるということだった。何か、理由があるはずだ。篠崎は思考を巡らせた。

 陽の当たる時間は日ごとに短くなり、冬が近づきつつあった。こうなると、二人が顔を合わせられる時間もおのずと限られてくるというものだ。篠崎の方も、新たなプロジェクトに着手すべき時期に差し掛かっていた。そんなある日、篠崎は趣向を変え、女を激情に連れていくと言い出した。アンは少し困惑した様子だったが、篠崎の提案を受け入れた。篠崎が連れて行ったのは、アンの期待に反し、巨大なシネコンではなく、小さな名画座だった。渋谷の裏庭と呼ばれるエリアにぽつんと立っている名画座である。二人が見たのは長い、恋愛映画の古典だった。第二次大戦中のモロッコを舞台に、スパイの男と現地の女が愛のバトルを繰り広げる。篠崎はともかく、アンの方は映画の長さに困惑し、何度か席を立とうと試みた。日没の時刻が迫っていたのだ。が、その手を篠崎に握られ、アンは身動きが取れなかった。
 劇場を出ると、日は完全に暮れ、あたりは暗闇に包まれていた。女の方は絶望的な表情をしたまま、エントランスから動こうとしない。
「どうしたんだ?」
「篠崎さん、あなた、分かっていたんですよね?」
「なんのことだ?何を言っているのか、僕には全然分からないのだけれど」
「しらばっくれないでください!ご存じだったんでしょう?私の鳥目に」

篠崎はしばらく考えるようなそぶりを見せると、低い声で、悪かったよ、と呟いた。

「いつも飲んでるその錠剤、ビタミンAだろう?僕はちょっとばかしドイツにいた頃があってね、冬になると陽がどんどん短くなって気が滅入るんで、友人の勧めで飲むようにしてたんだ。君のそれは、治療のためだろうけど」

女はキッと口を食いしばり、男の方に近づこうとしたが、叶わなかった。知ってて、こうしたのか。平手打ちの一発くらい食らわせてやりたかったが、女が近づいてくるのに合わせて、篠崎は周囲の闇へと身を隠し、アンの視界から消えてしまったからである。女は顔を真っ赤にして辺りを見回したが、そこに見えるのは真っ黒い絵の具で塗りつぶされたかに見える闇のカーテンだけだった。

「ここにいるものなんだから、僕の部屋で話さないか」

男の低い声が耳元で聞こえ、女は身震いした。いつの間にか、篠崎はアンの背後を取っていたのだ。犯罪の香りがむんむんとしたが、見知った男の顔はいたって冷静で、衝動はなおも理性の管理下に置かれているように見えた。一度きり、一度きりだ。アンは男の手を取った。

 閑散期のデザイナーの自宅は掃除が案外行き届いていて、アンは心なしか嬉しそうな表情をした。篠崎は「まあ、これもあと数日したら混沌としてくるからさ」と答えると、女をリビングへと案内した。念のため、篠崎は女に家の間取りを詳しく説明した。あらぬ誤解を招かないために、いつでも出ていけることを曲がりなりにも示しておく必要があると思ったからだ。無論、これは見え透いた大人の悪知恵だったが、場の雰囲気にのまれていた女はそれどころではなく、自分の置かれた状況にどうリアクションを取っていいのやらわからず、「片付いてるんですね」とか、「デザイナーのおうちって初めて見ました」とか、自分でも訳の分からないことを言っていた。

「コーヒーでも飲む?そんなに高いもんじゃないけど、淹れ方でカバーするよ」

「えっと、じゃあ、お願いします」

アルコールではない、女がそっと胸をなでおろし、篠崎がキッチンへと消えたその瞬間だった。リビングの電気が落ち、あたりは突如として暗闇に包まれた。騙された、騙されたんだ、年上の男と二人、それだけで既にキャパシティ・オーバーになっていた乙女の興奮は怒りに変わり、信用を悪用して部屋に引きずり込んだ男へと向けられた。が、暗闇で何も見ることのできないアンにはどうすることもできない。とにかく、近づいてくるであろう男を遠ざけるべく、両腕を目一杯広げてぶんぶん振り回した。何かが腕に当たり、ガシャンという音をたてたが女は気にしなかった。動き回っているうちに壁を発見し、なんとか部屋の明かりをつけられないかと探っているうちに、リビングの明かりが灯った。そこには、シーリングライトから垂れ下がる紐スイッチに手をかける篠崎の姿があった。それを見て、女は笑った。

「まったく、もう、どういうつもり」

「君の気持になってみようと思ってさ」

悪戯な笑みを浮かべる篠崎はアイマスクをしていて、何年も住み続けている部屋の中をフラフラと漂い歩き始めていた。テーブルに足をぶつけ、勢い余って激突した戸棚から電話機を落っことした。なおもよちよち歩きを続ける篠崎が、いよいよ食器棚へと接近し、惨事が予測されたところで、アンが彼の手を取った。

「助かるね。君が僕の目になってくれるわけだ」女は笑いをこらえられず、

「だって、もう見てられないんだもの」と言っている間も笑いっぱなしだった。篠崎はアイマスクを取ると、女の肩をおもむろに掴み、二組の双眸をしかと向き合わせた。女は今度こそ、完全に不意を突かれてしまった。この男の目がこんなに澄んでいるとは、間近に見るのはこれが初めてだった。

「世界が闇に包まれている間、僕が君の目になるよ。そして、君もまた、闇にさまよう僕を導く光になってくれないか。僕は鳥目じゃないが、そうでなくとも、世界は一寸先だって分からないくらいの闇に満ち溢れている。君が闇を恐れるように、僕も闇を恐れているんだ。どうだろう、アン、僕らが互いに手を取り合えば、どんなに深い闇の中でも山や谷を踏み越えていけると、そうは思わないか」

アンは天井の灯りから垂れる紐に手を伸ばし、それを引っ張った。晩秋の闇に包まれて、女の手を、男は優しく引き寄せたのだった。