晩秋の闇に包まれて

 下記の小説は「即興小説トレーニング」(即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))様の場において、その名の通り即興で、一時間限りの制約の中で書かれたものの完結版です。未完に終わってしまったのが悔しくてならず、Wordに場を移してから30分ほど延長し、この原稿に一応のめどをつけることにしました。この愉快な遊びに全力で集中していた、あの一時間の痕跡をそのままにとどめるべく、推敲等は努めて避けるようにしました。よって、見苦しいところも多々ありますが、それはそれとして温かい目で読んでいただければ光栄です。

 

晩秋の闇に包まれて

 

 渋谷から一駅、こうも雰囲気が変わるものだと、いつもながら感心する篠崎が腰を掛けていたのは、代官山の旧山手通り沿いのカフェだった。ちょうど昼時で、向かいにあるエジプト大使館からいかにも中東系の男たちがぞろぞろと出てきたところだった。顔を見上げれば渋谷スクランブルスクエアのまぶしいガラス張りの壁面がそびえ立ち、ピカピカに磨き上げられた窓に映る青空のお陰で、背景の色と心地よく同化していた。篠崎がこの昼時の時間をここで過ごすようになってから、およそ2週間が経過していた。デザイナーとして大きなプロジェクトを終え、今はちょうど脱力期、ささくれ立っていた神経が二日酔いの後みたいに鈍麻して、心地よいが不安も感じさせるような安寧に浸っていた。つまるところ、彼は暇だった。
 秋の空は夏の空よりも上品だという理由で、彼はこの季節を好んでいた。原色の目が覚めるような水色は、もう30半ばを過ぎた彼には似つかわしくなく、ちょうどパステル色の、淡い儚さを湛える秋の空の色はずっと好ましいものに思えた。夏の空の青さは、渋谷にはふさわしいが、ここ代官山には不釣り合いだ。彼はコーヒーを片手にそんなことを考えていた。いい日だった。
 通りに面した野外の席に座り、ここ2週間、通行人を観察して過ごしていた篠崎は、ここがどんなに閉鎖された町であるかということを今さらながらに思い知ったところだった。この時間、ここを通る人間はいつも決まっていて、カフェに集まる顔ぶれにもほとんど変化がない。そんなことだから、昼時、勤め人ならさっさと昼食を取り、足早にオフィスへと戻らなければならないような時間に、全くの新顔が現れたことにいち早く気がつくことができたのだろう。白いワンピースにカンカン帽、小綺麗に装った若い二十歳過ぎの女が彼のすぐそばの席に腰掛けた時、彼は彼女の新奇さを見逃さなかった。そして、その後に待ち受けている展開さえも…
「それ、フランス語なんです。こちらをどうぞ」
声を掛けられた女はびくっとしたが、すぐに篠崎の言うことを理解したらしく、篠崎の手から日本語版のメニューを受け取った。女は席についてからというもの、見慣れない言語で書かれたメニューに困惑していた。恐らく、これは「カフェー」なんだろうけれど…、アルコール入りとか出てきたらどうしようか、そんな様子を見かねてか、あるいは見透かしてか、篠崎は声をかけたのである。
「少し古い趣味ですね。60年代のカフェで見られたような演出だ」
「ええ、ちょっと驚きました。でも、ありがとうございます。どうしようかと思ってたので」
篠崎は女のやや季節違いの格好を目ざとく観察しながら、適当に新顔に勧めるべきものを勧めた。女は手堅く、警戒のポーズを未だ崩そうとはしなかったが、篠崎にはとっくに分かっていた。この時間、デザイナー然としているかどうかはともかく、有閑者気取りの清潔な格好の若い男に話しかけられたことに、女が少なからず喜んでいることに。注文を取ってやったタイミングで、彼はさりげなく彼女のテーブルへと移った。なんでもない話をしている間も女は顔を紅潮させ、どこか心あらずという雰囲気であった。『付き合ってみるというのも、悪くないかもしれないな』、篠崎にはそんなイメージが浮かんでいた。一時間弱が経とうという頃、タイミングを見計らっていたようであった、立ち上がってギャルソンを呼んだ。
「楽しい時間でした、本当に」
「ええ、僕こそ。またいらしてください。僕はどうせしばらく、この時間はここにいるでしょうから」
ギャルソンが現れると、篠崎は素早く財布を取り出し、「二人、まとめて」と告げると、クレジットカードを手渡した。
「困ります」
「いえ、困るのはこっちですよ。こんな場面で年長者が払わないのでは、男が廃るどころか、大人として失格ですからね」
でもその代わり————、
「あなたの時間をほんの少しだけいただけませんか?」
女ははにかみがちに頷いた。
「でもその前に、」
女はハンドバックから錠剤を取り出すと、いくつか手に出し、口に放り込んだ。
「どうしても、これは飲んでおかないと」

 女は杏(アン)という名だった。篠崎とアンは向かいの大型書店に行って外国の写真集や、過去の展覧会の図録を眺めたりした。書店の設備は充実していて、一階が書籍コーナーになっているほかには、二階にちょっとしたギャラリー、音楽ブースなどが併設され、一日過ごしても飽きることがないようだった。とはいえ篠崎は分をわきまえていたので、2時過ぎになると店を出て、彼女を駅の方へと送った。途中、アメリカンテイストの服屋がある。篠崎は時折ここに入って、趣味にあった服を買いそろえていた。もう50年以上続く店で、そうでありながら店も、商品も、店員にも全く古びたところは感じられない。彼がここに住むようになったのは、この店の存在もある。彼はそれとなく店に目を向けると、女はあまり乗り気ではないような様子をしている。確かに、趣味は合わないに違いない。服屋なのは見れば明らかだが、店内は演出上、常時薄暗く保たれていて、やや入り辛い雰囲気を醸し出しているのも事実である。なにより、店の中から立ち込める電子タバコの匂いを嫌がっているのではなかろうか、篠崎はそんな風に考えて、そのまま店を後にした。

 それから、篠崎とアンは例のカフェで顔を合わせるようになった。ごくごく、健康的な付き合いである。というのも、アンの方は決まって、日が暮れる前に帰ってしまうからである。篠崎は露骨に残念がってみせ、女を引き留めようとしたが無駄だった。篠崎にとって奇妙だったのは、女もまた、戻らねばならないことを本当に残念がっているように見えるということだった。何か、理由があるはずだ。篠崎は思考を巡らせた。

 陽の当たる時間は日ごとに短くなり、冬が近づきつつあった。こうなると、二人が顔を合わせられる時間もおのずと限られてくるというものだ。篠崎の方も、新たなプロジェクトに着手すべき時期に差し掛かっていた。そんなある日、篠崎は趣向を変え、女を激情に連れていくと言い出した。アンは少し困惑した様子だったが、篠崎の提案を受け入れた。篠崎が連れて行ったのは、アンの期待に反し、巨大なシネコンではなく、小さな名画座だった。渋谷の裏庭と呼ばれるエリアにぽつんと立っている名画座である。二人が見たのは長い、恋愛映画の古典だった。第二次大戦中のモロッコを舞台に、スパイの男と現地の女が愛のバトルを繰り広げる。篠崎はともかく、アンの方は映画の長さに困惑し、何度か席を立とうと試みた。日没の時刻が迫っていたのだ。が、その手を篠崎に握られ、アンは身動きが取れなかった。
 劇場を出ると、日は完全に暮れ、あたりは暗闇に包まれていた。女の方は絶望的な表情をしたまま、エントランスから動こうとしない。
「どうしたんだ?」
「篠崎さん、あなた、分かっていたんですよね?」
「なんのことだ?何を言っているのか、僕には全然分からないのだけれど」
「しらばっくれないでください!ご存じだったんでしょう?私の鳥目に」

篠崎はしばらく考えるようなそぶりを見せると、低い声で、悪かったよ、と呟いた。

「いつも飲んでるその錠剤、ビタミンAだろう?僕はちょっとばかしドイツにいた頃があってね、冬になると陽がどんどん短くなって気が滅入るんで、友人の勧めで飲むようにしてたんだ。君のそれは、治療のためだろうけど」

女はキッと口を食いしばり、男の方に近づこうとしたが、叶わなかった。知ってて、こうしたのか。平手打ちの一発くらい食らわせてやりたかったが、女が近づいてくるのに合わせて、篠崎は周囲の闇へと身を隠し、アンの視界から消えてしまったからである。女は顔を真っ赤にして辺りを見回したが、そこに見えるのは真っ黒い絵の具で塗りつぶされたかに見える闇のカーテンだけだった。

「ここにいるものなんだから、僕の部屋で話さないか」

男の低い声が耳元で聞こえ、女は身震いした。いつの間にか、篠崎はアンの背後を取っていたのだ。犯罪の香りがむんむんとしたが、見知った男の顔はいたって冷静で、衝動はなおも理性の管理下に置かれているように見えた。一度きり、一度きりだ。アンは男の手を取った。

 閑散期のデザイナーの自宅は掃除が案外行き届いていて、アンは心なしか嬉しそうな表情をした。篠崎は「まあ、これもあと数日したら混沌としてくるからさ」と答えると、女をリビングへと案内した。念のため、篠崎は女に家の間取りを詳しく説明した。あらぬ誤解を招かないために、いつでも出ていけることを曲がりなりにも示しておく必要があると思ったからだ。無論、これは見え透いた大人の悪知恵だったが、場の雰囲気にのまれていた女はそれどころではなく、自分の置かれた状況にどうリアクションを取っていいのやらわからず、「片付いてるんですね」とか、「デザイナーのおうちって初めて見ました」とか、自分でも訳の分からないことを言っていた。

「コーヒーでも飲む?そんなに高いもんじゃないけど、淹れ方でカバーするよ」

「えっと、じゃあ、お願いします」

アルコールではない、女がそっと胸をなでおろし、篠崎がキッチンへと消えたその瞬間だった。リビングの電気が落ち、あたりは突如として暗闇に包まれた。騙された、騙されたんだ、年上の男と二人、それだけで既にキャパシティ・オーバーになっていた乙女の興奮は怒りに変わり、信用を悪用して部屋に引きずり込んだ男へと向けられた。が、暗闇で何も見ることのできないアンにはどうすることもできない。とにかく、近づいてくるであろう男を遠ざけるべく、両腕を目一杯広げてぶんぶん振り回した。何かが腕に当たり、ガシャンという音をたてたが女は気にしなかった。動き回っているうちに壁を発見し、なんとか部屋の明かりをつけられないかと探っているうちに、リビングの明かりが灯った。そこには、シーリングライトから垂れ下がる紐スイッチに手をかける篠崎の姿があった。それを見て、女は笑った。

「まったく、もう、どういうつもり」

「君の気持になってみようと思ってさ」

悪戯な笑みを浮かべる篠崎はアイマスクをしていて、何年も住み続けている部屋の中をフラフラと漂い歩き始めていた。テーブルに足をぶつけ、勢い余って激突した戸棚から電話機を落っことした。なおもよちよち歩きを続ける篠崎が、いよいよ食器棚へと接近し、惨事が予測されたところで、アンが彼の手を取った。

「助かるね。君が僕の目になってくれるわけだ」女は笑いをこらえられず、

「だって、もう見てられないんだもの」と言っている間も笑いっぱなしだった。篠崎はアイマスクを取ると、女の肩をおもむろに掴み、二組の双眸をしかと向き合わせた。女は今度こそ、完全に不意を突かれてしまった。この男の目がこんなに澄んでいるとは、間近に見るのはこれが初めてだった。

「世界が闇に包まれている間、僕が君の目になるよ。そして、君もまた、闇にさまよう僕を導く光になってくれないか。僕は鳥目じゃないが、そうでなくとも、世界は一寸先だって分からないくらいの闇に満ち溢れている。君が闇を恐れるように、僕も闇を恐れているんだ。どうだろう、アン、僕らが互いに手を取り合えば、どんなに深い闇の中でも山や谷を踏み越えていけると、そうは思わないか」

アンは天井の灯りから垂れる紐に手を伸ばし、それを引っ張った。晩秋の闇に包まれて、女の手を、男は優しく引き寄せたのだった。