紅薔薇の惨劇

即興小説トレーニング投稿作品

「紅薔薇の惨劇」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com)

の改稿版です。

 

 柱時計が時を告げた。アルフォンス・グレーバーは今日二度目の睡眠から目を覚まし、人前に出るには恥ずかしくないだけの身支度を整えて、若者らしい血色のいい表情で、二階の寝室からホールへと続く階段を下りているところだった。階段の途中にある踊り場には飾り窓がはめ込まれ、そこから色付きガラスを通して庭を見渡すことができる。すでに始業から5時間近くが経って、染色し終えた糸を背中のバスケットに担いで庭を横切り、屋敷の反対側にある倉庫へと運んでいく工女たちの姿を見下ろしながら食卓へと降りていくのが、この放蕩息子の日課であった。しかし、今朝は少しばかり事情が違った。階段を下りた先にはすでに多くの人間が詰めかけていて、その全員が、めいめいが可能な限り美しく着飾っていた。それに比べると、アルフォンスのみなりは幾分ラフなものではあったが、彼が気後れする道理はどこにもなかった。

「貴公子がおいでだ。今日もお麗しいこと!」

人々はアルフォンスの姿を認めると、あらん限りの賞賛の言葉を述べ立てた。それは、この放蕩息子がこの地方の繊維産業を取り仕切るグレーバー商会の御曹司であり、それゆえ社会的に地位を認められていたというだけではなく、その美しさをして神からも認められていたからでもあった。普段着用の長ズボンを履き、すこし皺のよったワイシャツといういでたちは、なるほど、服をかぶせられる素材のすばらしさなくては、決してこのようなフォーマルな場で認められることはなかっただろう。

 やがて、エメラルド色に輝くサテン地のジャケットに身を包んだ一人の紳士が、人混みの中から御曹司の前へと躍り出た。彼は市民服の普及により斜陽になりつつある自身の業界、すなわち高級紳士服産業とグレーバー商会との永遠の同盟関係の保証を得るべく、はるばるカールスルーエからここラインガウの地までやってきたのである。

「どうぞ、お見知りおきを。坊ちゃん」

「いやあ、もう君のことは父の代からよく聞いているから、全然自己紹介なんて必要ないだろうに」

「友好は日ごと新しくせねばなりませんので」

友好的な微笑みを取り繕ってはいたが、彼は一刻も早くこの男の前から立ち去りたくてしょうがなかった。彼がやってきた理由など問うまでもないのだ。残念ながら、アルフォンスがこの紳士の経営する工場との契約打ち切りを宣言するのは時間の問題である。あるいはそれ以上に、この紳士の格好の方が気に障った。ジャケットは自前の商品なのだろうが、それにシルクのパンツを合わせるなど考えられない、まるで下手な貴族の仮装をした田舎の地主のようじゃないか。

 また後で話そう、とだけ念を押すと、貴公子は田舎貴族から離れた。次から次へと押し寄せる、まぶしいほど煌びやかな雑踏をかき分けつつ、アルフォンスはほかの出席者たちにも適当に挨拶を済ませると、屋敷の玄関へと続くホールの入り口に待機していた執事のもとへと急いだ。このエルンストという名の執事は、既にこの家に30年ほど仕え、この手のパーティーを始めとする屋敷で執り行われる行事の大部分で人員を指揮する役目を担っていた。が、近頃は視力がとみに衰え、自ら客を案内したりすることはせず、使用人たちを効率的に指揮することに集中していた。今日はレセプション担当である。

「エルンスト、リーゼは来てるか」

「ええ坊ちゃん。いらっしゃっておりますとも。坊ちゃんの言いつけ通りに、万事計らいましてございます」

「よくやった」

アルフォンスは執事の胸に赤いバラのコサージュをみとめたが、彼がそれについて言及するより、執事が御曹司の所望するものを指さすのが先だった。老執事の指さす先、壁際へと寄せられた長いテーブルにはこの地方で採れた作物で調理された食事が並べられ、リーゼという名の女はたった今、チーズを添えたカナッペを口に放り込んだところだった。駆け寄ってくる貴公子の姿を認めた女は、急いで口の中のものを飲み込むと、すました顔で男を出迎えた。

「ご機嫌いかが?」

「上々だよ。エルンストに呉服屋まで走らせた甲斐があった。今日の君は本当に美しい。いつもの薄汚れた作業着に身を包む君も、それはそれで僕の目を楽しませてくれるというものだが」

「私のような者がこんな会にお呼びいただけるなんて、坊ちゃんにはなんとお礼を申し上げたらよいのやら」

女は上目遣いに言った。さながら若き女主人だ。時折きまぐれに見せる、工女らしからぬ生意気な態度もまた、彼を魅了する要素の一つだった。

「硬いことを言わなさんなよ。いつも通り、僕の前では堂々としているがいいさ。君の風格と今日の衣装があれば、王家の舞踏会に紛れ込んだって気づかれんだろうに。ところで、そのバラ、よく似合っているようだ」

女のドレスの襟ぐりには、老紳士のとよく似た赤いバラのコサージュがあしらわれていた。それは白を基調としたシックなドレスとよく調和していた。よく見ると、女のほかにも何人か、赤いバラを胸元にあしらった参加者がいるようだった。

「僕もバラは好きだ。これほどまでに人間を華やかに彩ってくれる花は他にないからね」

「でも私が好きなのはバラではなくて、赤いバラですわ。坊ちゃん」

「ふん?バラではなくてかね?そういえば、今日は赤いバラを差している人間が多々いるようだが、どうして“赤い”バラなんだ」

「宗教上の理由みたいなものですわ」

女のミステリアスな言動に、貴公子の心はより一層、女に引き付けられていった。

 ジプシーの楽団が裏手の通用口から姿を現した。いよいよ後半戦に突入し、立食パーティーから舞踏会へと姿を変えようとしていた。

「君は僕と踊ってくれるね」

「ええ、もちろん。でもお気をつけになって。バラは人を刺しますから。手折られるだけでは、決して済まさないのです」

音楽が軽快に奏でられ、若い出席者を中心に、ホール中央で社交ダンスが始まった。貴公子は美しく着飾った工女をその胸に抱き、興奮した面持ちでステップを踏んでいた。一巡する度に、選ぼうと思えばいくらでも女を選ぶことができたアルフォンスだったが、彼は何度でも工女に踊りを申込み、彼女もそれに従った。ダンスが最高潮に達した時、女は男を強く抱き寄せると、その唇に接吻した。男は幸福の絶頂にあった。

 その時であった。仮面を外したかの如く、突如として冷厳な瞳を浮かべた女の口からサボタージュの決行が宣言されたのは。

「お前は大地への裏切り者だ」

接吻が合図となり、それまで和気あいあいとしていた参加者たちの何人かが血相を変え、胸からピストルを取り出すと、他の参加者たちに向けて発砲した。

「労働者の団結のために!」「ブルジョワどもを打ち倒せ!」「耕しもせず、紡ぎもしない怠け者たちに鉄槌を」

銃を手にした人間たちの中には、あの執事エルンストもいた。

 旧世界の遺物たちがこの世の生き地獄を見ていたころ、その最後の一輪たる貴公子は血だまりの中に独り倒れていた。生命力は瞬く間に流れ去り、幾万の富で養われた血は、大地を潤すことなく絨毯へと吸い込まれていった。バラは手折られるとも、けっしてタダでは済まさなかったのである。

 赤は、社会主義者たちのシンボルカラーだった。