日本式のテロリズム

 

即興小説トレーニングに投降した作品(「明日の神話」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。

 

 これ以上ないほどに蒸し暑い夜だった。渋谷はその名の通り谷地、落ちくぼんだ土地にあるものだから他の場所からの熱気や湿気が容赦なく流れ込んでくる。僕の無地のTシャツはすでに汗でほとんど透明になるくらいずぶ濡れで、額は地獄の窯より熱く火照っていたけれど、腹の底には冷たく蠢く重い蜥蜴のような何かを感じていた。「ファーン!!」というトラックのクラクションに驚いて、僕は肩をびくりとさせた。それを見て青島さんは笑った。

「大丈夫だって、村田君。こちとらプロなんだから。万が一のことがあっても君だけはちゃんと逃がしてあげるよ」

時間はすでに午前零時を回り、渋谷はちょうど一番人通りの少ない時間帯に入った。居酒屋やカラオケの客はすでに電車を捕まえて自宅へと戻り、パチンコ屋や風俗店の客はすでに店内にしけこんで、めいめいがしたいように夜を楽しんでいた。井の頭線の高架沿いに立つ店のほとんどがシャッターを下ろし、チェーンのパチンコ店と飲食店の二階に店を構えるソープランド、それにマクドナルドから漏れる光だけが、僕らの行く手を妖しく照らし出していた。

「さあ、ついたぞ」

東急デパートの裏手、ショーウィンドウに占められた華やかな正面とはちょうど反対側、建物の陰気な面にたどり着いた。壁一面に鉄製の非常用階段が張り巡らされていて、夜警だろうか、懐中電灯を片手に建物を上から下へ、右から左へ、端にたどり着くたびに方向転換してはくまなく動き回る人影が見える。青島さんに促されるままに、僕は高架の柱の陰に身を隠した。当の青島さんは建物に近い自動販売機へと移動し、その陰から注意深く身を乗り出して、スパイ映画さながらにビルの様子をうかがっている。警備員がビルのじゅうぶん上の方まで移動し、大人の平均的な夜目の明るさと高所の警備員の視野を鑑み、自分の姿が気色取られないタイミングを見計らって、青島さんは飛び出した。その走り方は堂に入っていて、靴の材質のせいでもあるだろうが、ほとんど足音がしない。青島さんは二階の、大変みすぼらしい矮小な従業員通用口のドアノブに——どこで手に入れたのかはよく知っている——女性ものの下着を引っかけると、非常階段と基礎部分との間に素早く身を隠し、そこに警備員が通りかかるのをじっと待った。

じきに反対側の階段から降りてきた警備員がその下着を発見すると——彼は思いがけず肥満体で、その顔は幼かった——、何度か周りの様子を窺い、それを大事そうにジャケットの内ポケットにしまい込むと、すごすごと通用口から建物の中に消えた。青島さんが僕を手招きした。口が「いまだ!いまだ!」と動いているのが見えた。僕は足先に力を込め、なるべく足音を立てないように、かつできる限りのスピードを出して走った。もっとも、ほとんどそこにいるだけで任せられた任務の大半を果たしているように見えるあの肥満体の青年なら、小走り程度でも軽く振りきれる自信はあったのだが。だいたい、懐中電灯を振りかざして歩くのは、己の居場所を知らせるだけでなく、夜目をほとんど使い物にならなくさせるという意味で愚策なのだ。だから、「そもそも侵入を試みる人間などそうそういない」という前提の下で、彼はたまに来る不届き物への警告の意味を込め、かのような業務を指示されているということだろう。そういうことだから、僕らはビルの持ち主が抱く素朴な性善説の恩恵に与って、目下渋谷駅ビルへの侵入を試みているというわけだ。

「本当に大丈夫なんですよね、これ」青島さんに追いついた僕は、小声で尋ねた。

「ヘーキヘーキ。もうこの時間になると構内はほとんど無人だから。それも既に下見で確認済みさ」

「人間は撒けたかもしれませんけど、まだ冷徹な機械が残ってますよ」

「監視カメラね。それもモーマンタイ。彼らが映像を確認するのは、何かが起きた時だけさ」

「これから青島さんがなさろうとしていることは『何でもないこと』だとおっしゃるんですか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

侵入の成功が決定的となり、青島さんはがぜん元気になったようだった。非常用階段を一気に4階まで登り、そこから僕らのいる東急デパートと井の頭線の駅が入っているビルから、JRや銀座線が入るビルを繋ぐコンコースの外壁へと飛び移った。すぐ近くに清掃員用の足場が備え付けられていて、そんなに冒険というほどの跳躍ではなかった。足場からコンコース内へと入るための扉は鍵が閉まっておらず、青島さんの得意げな表情を見る限り、これはたまたまではなくて、何かしらの方法でここを開けたままにしておいたのだろう。人のいないコンコースはがらんとしていて、普段よりもずっと広く感じられる。中は空調が利いていて、生き返る気持ちがした。

「ところで青島さん、なんで『カミカゼ』なんですか」

「ああ、グループの名前の由来?そりゃあ、俺たちのやってることが徹頭徹尾無意味だからだよ」

「いまひとつ理解できませんが」

「第二次大戦末期、幾千の大和男子が戦場の露と消えた。特攻作戦は戦機を挽回する、一発逆転の作として考案されたわけだが、結果はどうだ?全くの無意味だったじゃないか」

「でも、それで多くの人命が失われたのは事実でしょう」

「ミクロに見ればな。だがマクロに見れば、あの作戦は“詩”だったんだ」

「え?“詩”?」

「ああ、具体的な“行動”の対義語としてな。特攻隊はな、詩だったんだよ。それそのものが」まあ、三島由紀夫の受け売りなんだけどね、と付け加える青島さんは芸術家然としていた。「そうそう、それこそ村田君が毎晩見てるストリップショーとおんなじさ」

「それはいろいろと誤解を招きますよ?」

ことの始まりをいまさらながら説明すると、青島さんは僕が監視員のアルバイトをしている劇場の常連で、僕がショーを見てもほとんど興奮しなくなってしまったという話を聞いて、僕を“とっておきのアトラクション”に招待してくれたのだ。曜日を問わず、ほとんど不規則なタイミングで気ままに劇場を訪れるので、流石に勤め人ということはなかろうと思ってはいたが、なるほど、アーティスティック・アクティビスト集団総帥とは。

「ただの遊び人だよ」と、青島さんはつまらなそうに言う。

青島さんは仕事に取り掛かった。いや、無意味なのだから、仕事というよりは本当に「遊び」と言った方がいいのかもしれない。キャンプに使うような、備え付けの三脚で自立するタイプの小さなガスバーナーを取り出すと、僕にコーヒー豆の袋とコーヒーミルを手渡して、言った。

「じゃあ、村田君は豆を挽いてくれ。きっかり、116959個の豆を入れるんだぞ」

「え?そんなに多くは無理ですよ。っていうか、なんなんですか、その具体的な数は」

東京大空襲の死者数さ。まあでも、ここで11万の豆をぜんぶ粉にするのは無理だから、117粒でいいよ」

代わりに一粒一粒、心をこめて粉砕するんだぞ、という青島さんの言葉に従い、僕は丁寧に、一粒一粒がきめ細やかな粒子になるようにコーヒーミルのハンドルをゆっくり、力を込めて回した。青島さんはすで持ち込んだミネラルウォーターとやかんでお湯を沸かして待っていた。じき、用意は整った。

「じゃあ淹れよう。任せたぞ。最初はお湯を入れすぎないようにしろ。少しだけ垂らしたら、放置して蒸らすんだ。三分間は我慢だ」

僕にコーヒーを任せ、青島さんはリュックサックからおもむろに懐中電灯を取り出すと、目の前に広がる大きな薄暗い空間に光を差し込んだ。巨大な、おどろおどろしい、全身を炎に包まれた骸骨がそこに立っていた。それは絵画だった。大きな油絵だった。

「見てくれ、村田君。これが『明日の神話』だ。50年ほど前に行方不明になり、このほどようやくメキシコシティの廃屋で発見された岡本太郎の傑作だよ。こっちにコーヒーを持ってきてくれ!」

青島さんの左手には懐中電灯が、右手には酒の瓶が握られていて、懐中電灯を僕に預けると、青島さんは代わりにコーヒーの入ったカップを受け取った。

「ちゃんと絵を照らしといてくれよ」

おもむろに青島さんは酒瓶を傾け、緑色の液体をコーヒーの入ったカップへと注ぎ込んだ。

「ちょっと、せっかく丁寧に淹れたのに」

「丁寧に淹れたからこそさ。ほら見ろ、始まるぞ。この酒はアブサン。幾多の芸術家を地獄送りにした魔酒さ」

アルコールとカフェインが渾然一体となった魍魎的な液体を、青島さんは思いっきり空中へ振りまいた。液体は四方に飛び散ったかと思うと、今度は空中で一つにまとまり、絵の骸骨の方へと飛んでいった。液体は不気味な骸骨の全身をくまなく覆いつくし、その瞬間、絵がぐらりと音を立てて揺れたかと思うと、骸骨は神社の敷居をまたぐみたいな大足でこちら側に降りてきた。象牙を思わせる、関節のないしなやかな足は、ずしん、ずしん、と足音を立てることもなく、絵の架かっていたコンコースの外壁の反対側、すなわちスクランブル交差点を見下ろすガラス張りの方へと静かに向かっていった。骸骨の周りには、空母を護衛する駆逐艦のように、足のそれとほとんど同じ形をした6本の白骨が、ドローンのように自律して浮かんでいる。ガラスへと近づいた骸骨は這いつくばるように屈みこみ、窓から外の様子を覗き込んだ。2020年東京のありようを目に焼き付けているようだった。

「成功だ。成功だよ、村田君」

「それで、このあとどうなるんですか?」

「なにって、どうにもならない」

「どうにも?」

「ああ、どうにも」

「優しいテロリズムですね」

「日本流のテロリズムかな」

その時、僕らの目の前を鳥の群れが勢いよく横切っていった。が、ここは屋内だった。それは鳥ではなく、それまで骸骨の周りに浮かんでいた6本の骨だった。先程まで母艦の周りでおとなしくしていたのとは打って変わって、今度は隊列を組んでコンコース内の空間をぐるぐる旋回している。苛立っているようだった。いっぽう、骸骨の方は、外の景色に見入って身動き一つしない。

「この骸骨さん、外に出たいのではありませんか?」僕は青島さんに言った。

「そう思う?うーん、でもそれは困るねえ。まあ、そもそもこの大きさじゃ出ようがないけど」

その時だった。旋回していた骨の群れが中空でその動きをぴたりと止め、ポチャリ、静かな水面を打ったような音がしたかと思うと、6つの骨はあっという間にその形を失って液体と化し、間も無く滑らかな表面を持つ卵型の物体に変身した。内部で幾重にも反響し、増幅したかに思われるくぐもった音が、広い空間に不気味に響き渡っていた。中で何かが起こっているのは間違いなかった。なんだかすごくマズイ予感がして青島さんの方を見遣ったが、彼は出来上がった肖像画を眺める絵描きのようなゆったりとした態度で目を細め、のんびりと事の次第をうかがっていた。やがて6つの卵の中から6羽の白い鳥、ではなく6機の紙飛行機が飛び出し、何度か先ほどのように編隊を組んで中空を旋回すると、僕らが入ってきた外壁に出る扉から一列になって空へと飛び去った。

「大丈夫ですか…?」

「問題ない。多分、ニューヨークかワシントンか、どっちかの街の空を旋回して戻ってくるだろう。明日の朝にはきっと、すべてが元通りになっているはずだ。あれは所詮、絵だ。詩なんだよ。何もできやしない」

今日は8月15日、終戦の日だった。