自由、初めての週末

 生きるためにするべきこと、片づけなければならないことが、より多く自分の手にゆだねられている。秘密は自立した生活の中にしか生まれず、秘密を抱えることは一人の人間となることである。詩が内側から継続して生まれてくるためには、詩がいかにも生まれ出そうな特殊な環境を追い求めてさまよい歩くのは現実的ではないから、生活をこそ、詩の源泉としなければならない。教育的立場にある人間からの監視がなく、瞬間瞬間が判断に満ちていると、自分だけが知っている自分の姿がどんどんと増えていく。そういった自分の秘密の像が数が一定の地点にまで到達すると、人は自然と詩が書けるようになるのだ。詩人でありたいのなら、親であれ、恋人であれ、或いはペットであれ、自分の心の内を覗かせることはしても、精神的に誰かに依存して、自分の心を誰かとの共有物にしてしまってはならない。心に植民地が出来るようなものだ。人によってはそれによって一定の安定を見るかもしれないが、自分だけが持っている心というものを失った人間は、自分が生物として一つの個体であることを忘れ、一つの臓器になったかのような状態になってしまう。それはもはや個体ではなく、いわんや詩人ではない。そしてこのような精神状態から生み出される文化を、我々は「俗」と呼ぶのだ。
 実家にいる間、朝目が覚めてからの一日はそれが終わったとは気づかない内に終わってしまったものだった。だが、今ここにあっては時間は私の伴走者であり、腕時計へと姿を変えて、私を行動・事業へと駆り立てる。
 ドアを開けて出掛ける私の足音、ペダルをこぐリズムに合わせて軋む自転車、市場で野菜を買ったお釣りの小銭が私の手へと握られる時に発せられる心地の良い金属音、これら全てが私の組み立てた一日の中で発せられ、それを街がを受け止める。