画家の収支、リスの冬支度

  即興小説トレーニングで書いた作品(「画家の収支、リスの冬支度」 - 即興小説トレーニング (sokkyo-shosetsu.com))の改稿版です。いろいろと甘いですが、ひとまず形になったので、取り急ぎ。

 

 秋は深まり、サッシ越しに眺める庭の景色からも、日ごとに冬の足音が近づいてきていることが感じられた。五日ほど落ち葉掃きをさぼっているが、庭は早くも自然に征服されそうになっていた。ここに越してきてすぐ、朽ち始めていた柵や郵便受けの支え、家の柱なんかをみんな白いペンキで塗り直してやったのだが、今は落ち葉や埃のせいで、すべてがなんとなく煤けたような印象を与えている。古いサッシがイカレ始めていて、劣化したゴムの隙間から外の冷気が入り込んでくる。秋にもかかわらず、俺は室内での厚着を強いられていた。

 一匹のリスが、サッシの外を横切っていった。冬ごもりの支度をしているのだろう。彼らに残された時間はそう長くないに違いない。リスの姿を追いかけて、行く手の方を見遣ると、ちょうど庭の古いリンゴの木に空いた洞の中へと飛び込むところだった。

 …さて、俺は俺でタイムリミットが迫っているのだ。外のフォトジェニックな光景から、部屋の中に広がる混沌とした現実へと向き直った。このところ、十和子は大きなプロジェクトに関わっているとか何とかで忙しくしていたから、こっちに来ることは全然なかった。それでこのありさまだ。いつも彼女が家に来るときだけ片付ける、ずぼらな男だということがよくわかる。この季節は洗濯物もそんなに多くないし、などと考えているうちにバスケットはあっという間に一杯になり、壊れたサッシから砂や塵が中に入ってくるのだろうか、散らかった画材や道具、紙類がみんな薄っすらと埃をかぶっている。十和子がコンスタントに来てくれるならねえ…、なんて、田舎独り暮らし男の戯言はここまでだ。

 最優先は散らばった書類だ。これをなんとしてでも片付けなければならない。できれば、十和子の目の届かないところに。急いで書類の山を取りまとめていると、山の中に覆い隠されていたのだろうか、イーゼルが姿を現した。そう、カンバスを立てかけて絵を描くための台だ。たまにはスクリーンじゃなくてカンバスを相手にしようと、春ごろに倉庫から引っ張り出してきて以来、もう何か月も使っていない、イーゼル

 

 十和子は僕の現実を知らないのだ。彼女は僕のことをまだアーティストだと思っているに違いない。自分もかつてはそう思っていた。でも3年ほど前からだろうか、それ以降の自分はもうアーティストではなくて、職人、具体的にはイラストレーターと捉える方がよほど妥当だし、しっくりくるような気がしている。

 彼女と知り合ったのは美大にいた頃だ。あの頃はお互い、美大生らしく年相応にトンガっていた。くたばれ村上隆とか、打倒バンクシーとか、あの年頃の絵描きもどきにとってそういう愚痴や悪口は共通言語の一種、互いを同類と認識するためだけの符牒、言うなれば挨拶みたいなものであって、それ以上でもそれ以下でもないのだけれど、それでも心の底ではなんとなく、「自分は他の連中とは違う」って、そう信じていた。その点は、十和子も似たり寄ったりだったと思う。俺が油絵コースだったのに対して、あっちは彫刻コース。彫刻っていうのは恐ろしく体力勝負な世界で、なんとなくあの界隈全体には美大らしからぬ体育会的な空気が立ち込めていたのを覚えている。十和子はその中でもホントに男みたいなやつで——って言うと本人は怒るんだけれども——、俺にはそれが実に気に入った。作業中の十和子は実際すごかったんだ。鬼気迫る勢いで、何時間でもぶっ続けで鑿をふるっていた。他の連中には絶対負けたくない、そういう気迫がビシバシ感じられた。

 そんなだから、彼女が普通に就職すると言い出した時には、なんとなくこっちの力が抜けるような気がした。勝手な話かもしれないが、裏切られた、そんな感覚さえあったのだ。一度就職すると決めた後の十和子は実にあっさりとしていた。石膏まみれのオーバーオールからカラス色のリクルートスーツに着替え、この3年間彫刻のことしか考えてこなかった人間とは思えないほどにそつなく就活をこなし、早々広告代理店への内定を貰った。今はイベントプランナーとして働いている。

 お前はどうなんだって?俺か…、その質問に答えるのは簡単じゃないな。結論から言えば、実のところ、今はまっとうに暮らせるだけの金を自力で稼げている。美大ってのは、そもそも卒業生の約半分が行方不明になるような魔境であって、俺もその失踪者リストに名を連ねる人間の一人だったのは事実だ。卒業以来進路報告をしていないから、残念ながら、俺は未だに行方不明者扱いなのかもしれない。十和子が就職した一方で、俺は卒業後もしばらくアーティストとしての道を模索した。生活費を安く抑えるために、住まいを田舎に移したりして何とかやりくりしていたのだが、それも5年で限界が来た。そして俺は、当時アーティストを自認していた身としてはやや屈辱的でさえあったけれど、絵画のほかに、イラストレーションにも手を染めることになった。

 最初はほんの小遣い稼ぎのつもりだった。それがどうしたことだろう。こっちに越してきてから見かけるようになったリスを、落書き気分でデフォルメしてキャラクターに仕立て、出来心でツイッターにアップしてみたら、これがあっという間に拡散した。人気ユーチューバーの目に留まってアイコンに使われたと思いきや、今度は公開中のアドレスに仕事の依頼がわんさか舞い込んできて、そうして増えるイラストの仕事をこなしているうち、イーゼルもカンバスも埃をかぶることになったというわけだ。南無三。

 

「これはいつになくすごいね」

「お褒めの言葉をどうも」

なんとか書類は片付けたが、その代わりに掃除機や洗濯物、倒れたイーゼルやカンバスは断腸の思いで諦めることにした。それで、いち社会人としてのメンツは失われたが、アーティストとしてのメンツは守られたというわけだ。…まあ、本当に守らなければならないものなのか、今となってはよく分からなくなってきているのだが。それでも、十和子はまだ、アーティストとしての俺を尊敬してくれている。もうあの太っちょリス(例のキャラ)が世に出てから3年も経つけれど、今度こそ、いや次作こそは、なんて考えているうちに、世間の認識も、俺自身の生活も、イラストレーターという肩書を日ごとに裏付けるものになり、アーティストとしての自分はどんどん遠ざかっていく。

「落ち葉がすごいんだもん。車で着いたとき、廃墟になってるのかと思ったよ。ダメだよ、これじゃ。まずちゃんと生活するところから始めなきゃ。学生の時みたいにいつでも私がやってあげられるわけじゃないんだから」

「ビールくらいしか出せるものないけど、飲んでく?」

「うーん、出来るならコーヒーの方がいいかな。今日は暗くなる前に戻んないといけないから。それに、ここちょっと寒いし」

「サッシがイカレてるんだ」

十和子は窓際の方に向かうと、サッシを何度か開け閉めして調子を確かめた。十和子は目を細くして、僕の顔をじっと見つめた。

「出してあげましょうか?」

「何を?」

「そこまでひとに言わせるつもり?」

「サッシの修理代も渋るくらい落ちぶれているわけじゃないよ」と俺は答え、コーヒーを準備するためにサッシとは反対側の壁に備え付けられたキッチンへ向かった。北側に面したキッチンは薄暗く、シンク下の棚に収納したコーヒーの粉の缶を見つけ出すため、しゃがみ込んで、棚の中をちゃんと覗き込まなければならなかった。その時、背後で十和子が歓声を挙げるのが聞こえた。

「リスだ、リスだよ、リスじゃん」

なんとなく背筋が寒くなるような気がしたが、書類は片付けたはずだったので、俺は落ち着いて背後を振り返った。見ると、サッシを挟んで、十和子と一匹のリスが向かい合っている。胸にどんぐりを抱え、人間を前にしても不思議と逃げることはなく仁王立ちするリスに対し、十和子はしゃがんで目線を近づけようとしていた。俺がそっちに近づいたとき、本当の意味で寒気がした。十和子がしゃがんでいる足元のすぐ近く、洗濯物の山のふもとに、片付けの際に見落としたとみられる書類の一片が覗いていたからである。リスを驚かさないように、俺は十和子の背後にゆっくりと忍び寄り、洗濯物の下に覗く書類を、足でそっと山の中に押し込んだ。

「そっか。ここでリス見るの、はじめてだったか」

「うん」

目に見えない異変を察知したのだろうか。リスはびくっと体を震わせたあと、2,3回あたりを見回すと落ち葉の方へと飛び込み、素早くどんぐりをしまい込むや否や、先ほどのようにリンゴの木の洞へと消えた。

「片付けない美徳ってのも、あるってことだな」

「なにそれ。だからリスと一緒に暮らせますって?じゃあこの部屋は誰が何を隠すのかしら」

答えに窮する俺を、彼女が申し訳なさそうな顔で眺めていた。別に俺を困らせようとして、そう言ったわけではないのだ。ほんの冗談で言ったつもりのことが、思わぬ地雷を踏んだ格好になって、十和子も困惑しているのだろう。保証するが、十和子はいい女だ。こんな意地っ張りの男にいつまでもついてきてくれるのだから。

 一緒にコーヒーを飲んだ後、十和子は宣言通り、あたりが暗くなる前に車で都会へと戻っていった。部屋はまだ片付いていない。久しぶりの来客とひやひや体験とで疲れてしまった俺はキッチンの椅子に座り、夕日の中で次第に闇に包まれていく庭を眺めていた。スニーカー大の茶色い物体が、サッシの向こう側で慌ただしそうに往ったり来たりするのが見えた。また、あのリスだ。キッチンから眺めていると、リスは急に動きを止め、目が合った。途端にリスはピンと背中を伸ばし、その拍子に腕の中のどんぐりを取り落としたかと思うと、一目散に巣穴へと逃げ帰った。夕日の中、どんぐりだけが軒先に残された。俺は立ち上がってそっちの方へ歩いて行き、サッシを開けてスリッパを履くと、取り残されたどんぐりを拾い上げた。

「ちゃんと片付けなきゃな」

俺は隣人の住まいを脅かさないように、リンゴの木から少し離れた場所の落ち葉をかき分け、剥き出しになった土をほじくると、そこにドングリを埋めた。埋めた後は、彼らがするようにちゃんと落ち葉をかぶせた。さあ、俺も部屋を片付けることにしよう。十和子が次来るのは一か月後か、三か月後かさっぱり分からないが、今回のような思いをすることがないように、なんとしても部屋に秩序を取り戻さなければならない。

 さきほど足で洗濯物の山に押し込んだ紙を拾い上げると、それは今朝仕上げたばかりの新キャラクターのドラフトだとわかった。新キャラクターといっても、既存のリスのデザインに、人間の職業をイメージした服をつけ足しただけのものなのだが、いずれにしても、これはイラストレーションで食べている俺にとっては重大な財産だ。この仕事をちゃんとクライアントに届けることができなければ、冬が越せなくなる恐れがある。最悪、サッシの修理代を工面できなくなるかもしれないからだ。警官や教師、料理人や花屋に扮した十数匹のリスが描き込まれたそれを、十和子の目に触れることのないように、作業机の鍵付きの引き出しの中に丁寧にしまい込んだ。丁寧にしなければ気が済まなかった。だって、リスとはこれからも長い付き合いになるだろうから。