考察『100日後に死ぬワニ』

 思わぬ形で自由に文章を書く時間と機会が舞い込んできましたので、最近読んだ『100日後に死ぬワニ』(きくちゆうき)について考えたことをここにメモしておこうと思います。これからもこういった形で時折、ブログを更新することがあるかもしれません。全体としてさほど綺麗にまとまった文章にはならないかもしれませんが、少なくとも読者感想文の域は超えられるような、ある程度洗練された文体と分析手法を備えた読み物ぐらいにはできると思いますので、気が向いた時にのぞきに来ていたただければ幸いです。

①前提として…

 

 具体的な考察を展開していく前に、その前提として最終回(すなわち100日目)について私がどのように解釈したのか、ということをはっきりさせておきます。さほど一般に膾炙した解釈と違いはないはずです。ワニくんは100日後に、ヒヨコを何らかの危険から救った結果として(おそらくは交通事故で)命を落としました。ネズミくんがおもむろに桜の写真を撮ってグループに投稿する場面は、少なくともワニくんの死よりも後に起きた出来事でしょう。3ページ目の4コマ目に描かれた、ワニくんのものとおぼしきスマートフォンの画面に映し出されたスレッドと、2ページ目のネズミくんのに映っているスレッドは投稿されている写真こそ似ていますが、文面の方に違いが見られるからです。ネズミくんはワニくん亡き後に、それが何年先のことなのかはともかく、満開の桜を見上げて親友のことを思い出し、あれ以来もう使われていないグループにメッセージを投稿します。

②”あらかじめ予告する語り”について

 この『100日後に死ぬワニ』(以下、『ワニ』とする)がこれだけ大きな注目を集めた背景としては、タイトル通りに「100日後に主人公がこの世を去る」と予告した上で物語を展開するという手法が比較的物珍しく見えた、ということが挙げられると思います。ただ、何らかの形で物語上の先の展開をあらかじめ予告するという手法自体は新しいものではなく、我々も比較的頻繁に目にしているはずです。たとえばラブコメ漫画の第一話では、しばしば主人公と結ばれた後のヒロインの(花嫁)姿が描かれたりします。中でもハーレムものといわれるジャンルであれば、敢えてヒロインの後ろ姿だけを描き、個人を特定できるような描写を巧妙に省くことによって読者の関心を掻き立てたりすることもあります。ここ十数年でよく売れた文芸作品の中で言えば、島本理生ナラタージュ』は良い例かもしれません。

ナラタージュ (角川文庫)

ナラタージュ (角川文庫)

  • 作者:島本 理生
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: 文庫
 

舞台芸術における、回想を再現する手法を表す専門用語をタイトルに据えた本作は、タイトルからして過去を振り返る目線が意識されたものになっていますが、実際には物語はほぼ全て現在進行形で描かれるので、単に読み進めていく分には、読者は主人公:工藤泉が見聞きし、考えることを実況中継的に知らされることになります。ただ、この作品の冒頭には、作品で描かれる出来事が粗方済んだ後の時点から、これから展開される物語を見つめ返すように読むことを読者に促す、ごく短いシーンが導入されています。そこでは主人公の泉が、詳細不詳の彼女の夫と共に入居先のアパートを訪れるシーンが描かれます。そこでの彼女の態度は、これから描かれる大学一年生の頃の彼女と比べるとはるかに大人びているので、ここから我々は、このシーンがこの後に続く本編よりも大分あとの世界を描いているものと推測することができるわけです。

 厳密に言えば、『ナラタージュ』における語りが全篇通して明確に一人称であるという点において、『ワニ』で用いられている手法とは若干異なるものです。というのも、冒頭で描かれる泉が物語の行く末を完全に把握しているのに対して、ワニくんが100日後に死ぬという情報はワニくん自身には知らされておらず、これは読者、そして作者(正確には”語り手”)だけが把握しているのです。何はともあれ、これで”あらかじめ予告する”手法が持つ効果ついて概ね理解していただけると思います。要するに、こういった語りの手法には、いま読んでいる個所で起こっていることと、これから起こると予告されている出来事との間の因果関係を推測しながら作品を鑑賞することを読者に促す力があるのです。ですから、例えばハーレムものであれば、一体誰が勝ちヒロインの座を射止めるのかということに注目しつつ、特定の”推し”がいる読者は毎回一喜一憂しながら最新話を待つことになるでしょうし、『ナラタージュ』であれば、冒頭のシーンで主人公の傍らに立っていたのが誰なのか、葉山先生なのか、工藤くんなのか、はたまた全く別の男性なのかという謎を頭の片隅に入れつつ、怒涛のような恋愛ドラマを見守ることになるわけです。

③”前知的語り”について

 さて、『ワニ』で用いられている技法は、専門的に言えば”前知的語り”と呼ばれるものです。これはフランスの高名な文学理論化ジェラール・ジュネットが提唱した「語りの時間」の分類に基づくもので、この”前知的語り”のほかに”後知的〃”、”同時的〃”、さらに”挿入的〃”が存在するとしています。”後知的〃”は出来事が過ぎ去った後にそれを報告、あるいは思い出すように叙述するスタイルであり、要は過去形で書かれているということです。”同時的〃”の場合は目の前で進行していく物語が、それと歩調を合わせるような実況中継的な語り手によって叙述されます。現在形で書かれることが多いですが、ところによって過去形が用いられる場合もあります。”挿入的〃”は予備的な分類項目であり、物語の途中でそれまでとは別の時制に位置する語り手が導入される場合のことを言います(例えば第三者からの手紙や、物語に関係した出来事を扱った新聞記事が運用される場合)。なお、この世に存在する物語の99.9パーセント以上は”後知的〃”か”同時的〃“で描かれていると言っても過言ではありません。(私の個人的な鑑賞体験から言っても)”前知的語り”はかなり稀なスタイルなのです。それもそのはず、というのも、我々は未来について予測したり、誰かの予測を見聞きしたりすることはあっても、未来が文字通り予告されるところをお目に掛ることは、まずありえないからです。物語というものは、全てとは言いませんが、我々の人生体験を捨象し、象徴的な形で再現したものです。ですから、現実にはあり得ない”前知的語り”が用いられることも少ないのです。別の言い方をすれば、”前知的語り”は叙述方法としてそれ自体、すでに超現実的であり、何らかの劇的な効果をもたらすことが約束されている言ってもいいかもしれません。

 『ワニ』は漫画なので映画のナレーション、小説における地の文に当たる部分はないように見えますが、実際はそれとほぼ同じ機能を題名が果たしています。

④「死」という通奏低音

 ”前知的語り”をはじめとする”あらかじめ予告する語り”自体は、市場に出回る物語芸術の中ではそこまで珍しい手法という訳でもない、ということは先に述べました。そんな中で『ワニ』が際立っているのは、「死」という一般的に言ってかなり暗く、重たい結末が予告されているという点です。ラブコメや『ナラタージュ』の場合はそれが一応のハッピーエンドで幕を下ろすことが予告されている分、途中で登場人物たちに何が起ころうが、最後には「気持ちのいい形で」物語が終わるはずだという大きな安心感があります。『ワニ』の場合は殆どその逆で、ポップな画調で描かれる極めて牧歌的な世界観の裏に、読者は着々と忍び寄る死の影を絶えず見ることになるのです。また、本作は、たとえば明智光秀の生涯を取り扱うような歴史小説でもありませんので、我々はワニくんたちの比較的穏やかな日常を眺めつつ、彼がその生涯をどのように終えるのか、ということを常に念頭に置いて一日一日読み進めていくことになります。

 とはいえ、この『ワニ』がこういった「死」を予告する手法の第一人者という訳でもありません。私が今まで鑑賞してきた作品の中にもう一つ、『ワニ』と同じように登場人物の死を前知的に語る小説があります。ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』(1984)です。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 それが小説のタイトルであるということが忘れられてしまうほどに極めて印象的なタイトルを持つこの作品は、1984年にチェコ出身の作家ミラン・クンデラによって発表された長編小説です。クンデラは政治的理由により当時の東側共産圏チェコ・スロバキアからフランス・パリへと逃れた所謂「亡命作家」として知られ、本作の物語も彼自身の亡命への直接的な要因にもなった自由化運動「プラハの春」の栄光とその崩壊を背景として描かれています。それなりに長い作品ですし、フィクションの形を取った政治史的ルポルタージュであるというだけではなく、ここで全てを解説するには余りにも多様かつ膨大な哲学的・文学的テーマが取り扱われています。自身が今まで読んだ小説の中でも最も好きな作品の一つであり、是非とも一度は詳細に考察してみたいものですが、今回はあくまでも『ワニ』との比較対象になり得る要素だけに絞って紹介していきます。

 なお、私は今回の比較および考察から、この二作品が直接的な影響関係にあるということを指摘したいわけではありません。「『ワニ』は『存在の耐えられない軽さ』(以下『存在』とする)のパクリ!」とか、そういうことではないということです。ただ、『ワニ』の物語の全貌を理解する上で、とある有名な外国文学作品が有効な補助線を提供してくれるというだけのことなのです。とはいえ、いま日本人を夢中にしている漫画が、30年前に世界を熱狂させた小説と、「死」というモチーフとその描き方を通じて重なり合うというのは、それ自体たいへん喜ばしいことではあります。

 前置きからしてだいぶ重々しい印象を受けるかもしれませんが、『存在』はれっきとした恋愛小説です。トマーシュとテレザ、フランツとサビナの二組のカップルが互いに(直接的であれ、間接的であれ)影響を与え合いながら、一方が避けがたい形で破局し、もう一方が男女もろとも事故で命を落とすまでの過程を描いています。ただし、クンデラは一連の出来事を、実際に起こった順番の通りには描いていません(※)。時系列的に後の出来事を、それよりも前に起きた出来事よりも先に描いたり、一度描いた時間を別の視点からもう一度描き直したり、全七章構成の中で何度も行きつ戻りつしながらこの小説は進んで行きます。

※いかにも専門家っぽく言えば、物語の「プロット」と「ストーリー」が一致していない、ということです。

命を落とすのはトマーシュとテレザの方なのですが、彼らが乗っていたトラックが崖下へと転落して二人が即死するということは、物語全体から見てだいたい40%ほどの地点で予告されます。サビナがジュネーブで文学教授をしているトマーシュの下を去ってパリへと移り、それから3年程経ったある日、トマーシュの息子から二人が事故で死亡した旨を伝える手紙を受け取るのです。このシーンが登場するのは全7章の中でまだ第3章のことであり、この後に続く第4章、第5章、そして最後の第7章ではトマーシュ、テレザの最後の数年間が時間を巻き戻して描かれることになります。この小説が彼らがこの世を去る直前のシーンで幕を閉じるまで、合計3章分、読者は二人を待ち構えている「死」を絶えず意識しながら物語を読み進めなければならないのです。自作をしばしば音楽に喩え、自ら音楽用語を用いて説明してきたクンデラにちなんで言えば、二人の死の予告は、謂わば通奏低音となって、それ以降の物語を物悲しいトーンで統一している、といったところでしょうか。

⑤死は破局ではない

  二人の死にサビナは強い衝撃を受けます。しかしそれは、知らぬ間に、二人の知人が同時に帰らぬ人となってしまったからではなく、死の直前の二人の足取りが、明らかに二人が幸福の内に死んだということを示していたからです。ジュネーブに暮らす以前より、プラハで二人と親交があったサビナは、二人は強く愛し合っているものの、その関係がかなり不安定なものだったことを知っていました。トマーシュはとんでもないプレイボーイ、ドン・ファンであり、彼自身の行動哲学に基づいて、一人の女性を一途に愛し続けるよりは、むしろ何人もの愛人と同時に関係を持つことを好みました(なお、その愛人の中にはサビナも含まれています)。そういった彼の放埓な性生活に絶えず悩まされ続けていたテレザは慢性的に情緒不安定であり、彼との関係を巡って、何度も”事件”を起こしています。ただ、サビナが二人に関して直接知っているのは、彼らがスイスに滞在していた時期までのことで、彼らが再びプラハに戻ってからのことは何も聞かされていません。フランツを捨て、パリに移ってからしばらくたった頃のサビナの下に届いた手紙には、トマーシュが天職だった外科医の道を捨てて、田舎のトラック運転手に転身していたこと、二人が事故に遭ったのは、二人で隣町まで出かけ、安ホテルに宿泊したその帰りだったことが書かれていました。人間関係は狭く、都会のように身を隠せる場所も多くない田舎では、プラハ住まいの時のように愛人を持つことはできません。そして何より、彼が天職を捨ててまでテレザとの二人の生活を維持しようとしたことは、彼らが死ぬまで愛し合っていたことの何よりの証拠である、とサビナは考えたのです。実際、そのことは本編の第7章で証明されることになります。

 さて、以上の内容を踏まえて、改めて我らが『ワニ』の最終話を眺めてみることにしましょう。最も注目すべきなのは、3ページの2コマ目です。

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このコマからは、ワニくんの体に上下運動を指し示す強調線が引かれていることから、彼がいまにも道路に倒れこもうとしていることが読み取れます。ただ、ワニくんの表情が完全には描かれていないこともあり、そこに彼の死が暗示されているにも拘わらず、このシーンは不思議なほどに悲壮感を欠いています。

 『存在』と『ワニ』、この二つの作品に共通しているのは、登場人物の死が重大な破局としては表現されておらず、むしろ機械的で、脈絡のない生の打ち切りとして描かれているということです。トマーシュもテレザも、ワニくんも、避けられない悲劇へと自らの足で歩いていったわけではなく、ある日突然、彼ら自身の運命にその活動の終了を宣告されたに過ぎないのです。こうした死の描き方は、素朴な映画や演劇で描かれるようなもっともらしい悲劇よりも、我々の生の本質をより的確に捉えていると言えます。それは、我々の大部分がヒーロー/ヒロインのような華々しい幕切れを演じる訳ではないから、ということだけではなく、「死」自体は、単に一つの生命がある段階から別の段階へと進んだという観念的な事実以上のものではないにも拘わらず、我々はそれを重大なことのように感じてしまうのだ、という事実がこのシーンを通じて突きつけられるということにあるのです。「死」そのものは一つの現象でしかありません。一連の現象(出来事)の連なりではないので、そこにドラマが入り込む余地はありませんし、当然、物語も生じません。

 「死」そのものに意味があるわけではないのです。全くの逆なのです。死が我々の生に意味を与えてくれるからこそ、死が我々の人生を重大なものにしてくれるかのように見えるからこそ、死が重大なことのように思えるのです。

⑥ワニくんからのメッセージ

 それでは、「最後の瞬間が来るその時までがんばろう!」というのが『ワニ』から我々が読み取れる最も妥当なメッセージなのでしょうか。おそらく、そうではないはずです。そのようにこの作品を解釈する人は、ワニくんの死をあまりに重く受け止め過ぎて、彼の生前の行いの価値を過小評価しているか、花吹雪の中でむかえたセンチメンタルなフィナーレに幻惑されているかのどちらかです。彼はそのような、大きな目標のために個々の欲望の成就を先延ばしにするような人生観を持ってはいませんでした。むしろ彼の生き方は非常に刹那的であり、日々湧き上がる欲望に忠実に生きていたように見えます。自分の生き方に疑問を抱く瞬間もありましたが(※)、数日もするといつもの調子を取り戻しました。これは、そのような生き方が彼の性に本当に合うものだったということを示しています。

※58日目(https://twitter.com/yuukikikuchi/status/1225720874042445826?s=20)を参照せよ。大きな大会や競技会で高いパフォーマンスを発揮するために、日々の欲望を犠牲にして努力を積み重ねていくアスリートの生き方は、ワニくんのそれとは対照的である。無論、彼らのような生き方が否定されているわけではない

別の言い方をすれば、彼が己の命を懸けて我々に伝えてくれたのは、いずれ訪れる終焉すなわち死を根拠として立ち上がってくる”人生の意味”なるものに、我々が囚われ過ぎているのではないか、ということです。もっと平易な表現に言い換えれば、人間が大きな目標のためにあまりに個々の欲望を犠牲にし過ぎると、いずれは人生全体をダメにしてしまう、ということなのです。ライフプランの中継地点として設定した一時的な目標のために、その都度、欲望を断念しなければならない局面は多々あるでしょう。しかし、”人生の意味”なるもののために生きるということは、ワニくん的な人生観に照らして、これ以上ない程に愚かなことです。なぜかって、個体が死ねば、断念された欲望が贖われる可能性も永遠に消え去ってしまうからです。死後の世界があるというのなら、話は別ですが…

 さて、『存在』のトマーシュは生まれつき、比較的ワニくんのそれと近い生き方を実践していましたが、生前にテレザもまた、ワニくんが命懸けで我々に提示してくれたのとほとんど同じ境地に達することができました。『存在』のラストシーン、プラハ在住の腕利き外科医から田舎の貧しいトラック運転手にまで落ちぶれてしまったトマーシュに、彼がこれほどまでに多くのものを失ったのは他ならぬ自分のせいだ、とテレザは詫びようとします。しかし、当のトマーシュはむしろ晴れ晴れとして、逆にテレザにこう問いかけます。

僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?

(文庫版『存在の耐えられない軽さ』394頁、強調は筆者による)

テレザは彼の問いかけの意味を完全に理解しました。”人生の意味”なるものに絶えず苦しめられ続けてきた彼女でしたが、とうとう、いま目の前にある幸福に身をゆだねること、すなわち、生を享楽するということを会得することができたのです。

……そしてこの直後、二人は自動車事故で命を落とすということを、我々は知っています。

⑦この世に置き去りにされた私たち

 ワニくんは死にました。トマーシュとテレザもまた、死にました。彼らは幸福の内に死んだように見えます。いや、実際に彼らが死の瞬間にどう感じていたかは、我々には分かりません。なるほど、未だ生を続行している我々には、彼らが生前に積み重ねていた幸福の痕跡だけが残されたのです。先ほど取り上げた3ページの2コマ目の続きを見てみましょう。3コマ目と4コマ目です。

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絶命に際して苦悶するワニくんの姿は描かれていません。その代わりに、ヒヨコの目線に誘われ、我々の注意はワニくんのものと思しきスマートフォンの画面へと向けられます。そこには死の間際まで人生を楽しみ続けたワニくんの姿が、ネズミくんのシェアした桜の写真に感激する、素直で無邪気なメッセージへと変換されて映し出されています。要はこの場面では、何が描かれているのか、ということと同時に、何が描かれていないのか、ということが同じくらい大きな意味を持っているのです。「死」という概念が持つイメージは、それにまつわる文化的な蓄積、我々一人一人の幼少期からの刷り込み、そして生物としての生存本能と結びついて何重にも強化され、人間が独りで立ち向かうには手に余るほどに強烈なものです。強烈な「死」のイメージは、それまでの道のりを構成してきた、生活の細部に宿る輝きを覆い隠してしまいます。だからこそ、語り手は意図的に(と言っても構わないでしょう)「死」を我々の視界から遠ざけることによって、死に対する生の絶望的な戦いを回避したのです。これによってワニくんの生前の輝きは血で汚されることなく、我々の心に刻み込まれることになりました。

 

 ここまで来れば、我々はネズミくんの最後の行動の訳も理解できることでしょう。もう使われていないグループに桜の写真をアップしたこと、すなわち、既にこの世にいないはずのワニくんに向けてメッセージを送信したということは、あれから時が過ぎてもなお、ネズミくんがワニくんの不在を受け止めきれず、未だに彼の死に囚われ続けているということを示しています。ちなみに、察しのいい方は既にお気づきのこととは思いますが、『存在』のサビナは『ワニ』のネズミくんとほぼ同じ役割を演じているのです。知人の突然死に動揺するサビナとネズミくんの姿は、登場人物の脈絡なき死に心揺さぶられる我々読者の写し絵でもあります。ワニがあの世へと去ったのではありません。我々がこの世に置き去りにされたのです

⑧まとめ、最後に

 これまでの多少込み入った議論の中から、「明日使えそうなワンフレーズ」を引き出すとすれば、「人はいつか何の脈絡もなく死ぬ。だから一瞬一瞬を大切に生きよう」といったものにでもなるでしょうか。要約されてしまえば、長かった100日間も大分月並みな結論に縮んでしまったように見えますが、こうした、当たり前のようによく知られてはいるけれど、意外と容易には理解・了承されない事実、すなわち人々がしばしば”真実”と呼ぶところのものを描き出すことに、前知的語りは高い威力を発揮する技法なのです。結論の簡潔さは、きくちゆうき氏が『ワニ』を通じて挑んだ主題が、それこそ100日間の長い時間をかけてじっくりと取り組まれるに値するものだったということの裏返しに過ぎません。それに、『ワニ』が持つ魅力がこんな乾いたワンフレーズなど歯牙にもかけないほどに具体的で、豊かなものであることは、つい数日前に作品のフィナーレを祝ったばかりの我々には明らかなはずです。究極的には、作品は決して要約できないものです。ワニくんの生涯最後の日々が我々に示唆したものは、他ならぬ我々自身の印象の中に、ある種の実感として生き続けることになるでしょう。

 最後になりますが、この『100日後に死ぬワニ』がコロナウイルスが蔓延する危機の時代に我々の前に差し出されたことの意義について、少しだけ言葉を補っておこうと思います。ワニくんは何の脈絡もなく死にましたが、こうした「死」が本来備えている”理不尽さ”は、こうした災害を前にしてこそ際立ってくるものです。とはいえ、これほどまでに多くの人が同時に、そして平等に死の恐怖に脅かされるということは、台風や地震、あるいは人為的な災害であるところの戦争下の時代にもなかったことでしょう。”理不尽さ”はしばしば、こうした平等性へと思いがけなく転化するものです。

 この作品がこの時代に世に出たことは、単なる偶然です。そこに意味があるわけではありませんが、この驚くべき偶然を我々は何らかの形で一つの機会として活用できるはずであり、その実践として私はこうした文章を書きました。

 ……そうこうする内に、この文章も10000字に到達しようとしています。そろそろ筆をおくことにしましょう。どうぞ体を大事にしてください。もし興味が湧いたなら、『存在の耐えられない軽さ』の方も是非読んでみてください。ここまでお読みいただきありがとうございました。

2020年3月29日

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京都御所にて筆者撮影